11 Dec 2021



こよみ

  戦前生まれの父はこのようなもののことを、カレンダーと言わない。「こよみ」と言う。この言葉を耳にすると、日々の大切さのこもった、煤の沁み込んだ柱にかかる、ぱりぱりした紙の日めくりを拝むような、少し改まった気持ちがする。

 こよみの語源は「日」を「か」と読み(二日、十日のように)「かよみ」と言ったのが始まりだそうで、「読む」には「数える」という意味もあるということ。日を数える=暦(カレンダー)。

 今年もカレンダーの「たま」と呼ばれる日にち部分を間違えないように何度も校正して、さきほどやっと、このミニカレンダーのデザイン原稿をネット入稿しました。もう20年近くお世話になっている長野のO印刷。すぐにKさんが確認の電話をくださった。この季節、信じられないくらい忙しいに決まっているのだが、いつものように明るい声できめ細かくリクエストを聞いてくださる。ありがたい。

 購入については上のメニューバーから shop のページに飛んで、詳細をご覧ください。明日、12月12日よりお申し込みをお受けいたします。よろしくお願いします。




 今年は久しぶりに、水彩画です。単純なスケッチ画ばかりですが、どの絵にも思い入れがある。



 この月にはどの絵にしよう。考えるのが愉しい。中でもお正月の1月と、師走12月はよくよく考えて決めます。今回は1月はムラーノガラスのキャンディ。お年玉みたいでいいなと思った。ロンドン時代に、たとえ買わなくてもよく通った、リッチモンドのアンティークショップで見つけたもの。

 12月は山帰来の実にした。クリスマス色は出さず、一年、お疲れ様の思いで選んだ。来年こそ、コロナが収まりますように。

 shopのページから、ご連絡をお待ちしています。




10 Nov 2021




だいどこ便り

 朝起きて台所に行って、まずお湯を沸かすことは話しました。お茶とコーヒーを淹れるために。それからたいていは、パンを食べる。バターと蜂蜜、クリームチーズとラズベリージャム、ここ最近はよくBLTサンドイッチを作る。イギリスはさすがサンドイッチが美味しい国で、BLTは思い出の味です。

 今朝は昨日買っておいたコロッケでコロッケパンにした。ウスターソースをたっぷり。レタスと一緒にイングリッシュマフィンに挟んだら、メチャクチャ美味しかった。

 先週はご馳走パンもありました。伊豆の和のリゾート、東府やさんにあるベーカリーのパンです。今まで食べたパンの中で最高に美味しかったと言っても、ぜんぜん過言ではありません。感動的。近かったらなぁ。これはいじましく、最後のふた切れの記念写真です。




 介護や介助でタフな日が続く。今日も忙しかった。お昼に何を食べよう。あてずっぽうで、こんなものを作りました。




 このひと月ほど、納豆を毎日欠かさず1パックは食べていて、そのパワーに驚いているところ。だって、ほんとうに体調が良くなったから。

 江戸の調味料、「煎り酒」と卵黄で、納豆カルボナーラ風をやってみました。茹でてオリーブオイル少量を和えたパスタに、卵黄に煎り酒適量を混ぜたソースを絡めます。納豆とめかぶを納豆のたれでぐるぐるネバネバ混ぜ合わせてトッピング。さらに好物しば漬けを盛る。色合いもなかなか。アレンジしながらまた作ろう。



 
 実は昨日はタフな上にもタフな一日だった。夜になってダメ押しの一発があったからへとへとになった。夕飯も食べずに解決策をさぐり、24時間対応の訪問看護さんに電話してアドバイスを受け、遅くに世界はなんとか平穏に戻った。ふー。

 さて何を食べましょう。時計の針は11時。お腹は超ペコペコ。食べずに寝るという選択肢はありません。

 若い頃、夜、吉野家で牛丼を食べたときのことをふっと思い出して、そうだ、あの牛丼にしよう!と思った。超簡単なのにとっても美味しい・・・と来ればレミさんレシピとバレますね。

 最近M下さん仕込みの、セロリと赤ピーマンのきんぴらにハマっていてよく作るのですが(またご紹介しますね)、セロリの茎だけを使うから葉っぱたちが野菜庫に備蓄されてゆく。昨日スーパーで、鹿児島和牛薄切りの特売パックに運よく遭遇した。このコンビを食べやすく切り、サラダオイルでザっと炒めて、お醤油をたらーりとかける。たったそれだけ。ハイ、お客さん、一丁上がり!



 レミさんは天才だと改めて思う。たしかプレーンに「セロリ丼」と命名されていましたっけ。あったかいご飯にのっけて、激ウマです。だまされたと思って、ぜひやってみてください。七味をかけてもいいですね。

 就寝前の食事って、ほんとはいけないんですよね。でもあったかいご飯のおかげで身も心も満足。疲れも吹き飛び、ぐっすり眠ることができました。めでたし、めでたし。

7 Nov 2021

 



星に願いを Part 1

 クリスマスが前倒しで来ちゃって、この先寂しい~12月が待っているんじゃないかと不安になるほど(?)、贈り物を頂く機会が続きました。

 頂き物自慢はいかにも無粋、そして品がないとは思うのですが、人に見せずにはいられない。そんな頂き物もあります。

 


 これは今まで3冊、一年に一度イギリスで発行されている雑誌なんですが、内容がとにかく素晴らしい。長年お世話になった Country Living 誌の別冊。Vintage に特化したインテリアや小物の美しい写真、芸術的ヒントなどが、こぼれんばかりにいっぱい詰まっている。

 残念なことに、私の知る限り、日本では手に入らない。一昨年の号は友人のベッキーさんから、今年の号はキャリーから、そしてキャリーに頼んだものの売り切れて買えなかったわ~、ゴメンナサイと連絡のあった去年の号を、先日心優しいヘレンさんからもらって、3号がそろいました。ありがとう、親愛なる UK Ladies よ!

 instagramでも、ヴィンテージやブロカントの美しいアカウントを多くフォローし、眼と心の保養をしているけれど、最近はインスタ疲れも少々あるし、やはりずっしり手に取って好きな時にページをめくることが出来る書籍は、私にとって特別なものです。資料はそう沢山いらない。でもいくつかの宝石のような本や画集は、心のバランスを取るためにも手もとにいつもあるべき。そう思います。オンラインやワークルームのレッスンで、時々生徒さんたちにもご覧頂いているところです。

 色彩のセンスを磨くために、かつて若いイラストレーターだった私は、この様なセンスのよい雑誌や書籍の写真からピーンと気に入ったものを選び、この写真の中で使われている色彩だけで絵を描いてみよう。そんな試みを繰り返したものでした。当時はファンタジーの世界が私のテーマだった。題材はまったく別物でも、色彩のセンスを盗んでやろうと思いました。今でもよい勉強だったと思います。

 次の一品は、まさしくファンタジー。




 長年親しくして頂いている人生の先輩、M下さんが、先日初めてワークルームにおいでくださった。途中、親しい友人であるお花屋さんの giverny さんと weekend books さんにもご案内した。weekend さんの店内で、「これをお見せしたいわ」と、大きなバッグの中から登場し、無造作に、野菜か何かみたいに新聞紙にくるまれていたのがこのお皿でした。高松さんも美和子さんも、もちろん私だってびっくり!

 「絵を描く女性が描かれているなんて、珍しいでしょ?」。珍しいも何も、なんて魅力的なお皿だろう!! 美和子さんと眼がハートになってしまった。しかもサラッと、私にくださると仰る。高松夫妻が慌てて紙袋を用意してくださった。新聞紙じゃ滑り落ちて壊れるかもしれない。袋に入れなきゃだめだよと。突然みんなで国宝を扱うような気持ちになって、涼しいお顔のM下さんとのコントラストに笑った。

 フランスのアンティーク。もしV&Aの硝子棚に鎮座しているのを見つけたら、行くたびに詣でるだろう。夢のように有難い絵柄。




 「こんな人になりたいな」と言う私に、いつもエミリー・ディキンソンみたいに白いドレスの美和子さんが「じゃあまずこのドレスを着なくちゃ」。何十年ぶりかにキャンバスに絵を描くことを試みようとしている自分。なんというタイミング。なんという贈りものだろう。M下さんには、すべてオミトオシなのだ。

つづく



 11月のHACでは 'A Merry Little Christmas' と題して、小さなゴールドのオーナメントで作品を作ります。何をやるにもますますじっくりのろまなので、きのうやっと材料をまとめパッキングして、みんなに発送しました。キラキラ輝く金色を、数や量を確かめながら小分けにして袋に詰める作業は、いつにも増して愉しいものでした。明日か明後日には届くかな? メンバーの皆さん、待っててくださいね。

2 Nov 2021

 


植物あれこれ

 この間クレマチスの丘で鉢植えの秋明菊を手に入れました。これがとても良い株で、次々花を咲かせてくれる。まだ蕾がいっぱい控えている。最近は風もなく、穏やかな晴天が多い。平和な朝に白い花を確認するのが、私の地味な日課です。

 今調べたら、この花には別名が一抱えある。秋牡丹、しめ菊、紫衣菊、加賀菊、越前菊、貴船菊、唐菊、高麗菊、秋芍薬。中国からの帰化植物だそうで、アネモネの仲間なのだとか。確かに洋の器に生けると、ちょっとアネモネらしく見える。




 これは黄瀬川のお花屋さん giverny で見つけた珍しい葉の蘭、マコデス・ペトラ。これにも別名がある。その名も華やか、「ジュエル・オーキッド」。

 なぜかというと、葉っぱがキラキラ光っているのです。




 わかるかな? わからないかな? 飛行機から見た不思議な紡錘形の街。通りに灯る民家の灯り・・・みたいな。極小のシードビーズが点々と灯っている・・・みたいな。よかったら拡大して見てあげてください。育てるのが難しいかもですが、早くミズゴケを買ってきて、素焼きの鉢に植え替えよう。




 giverny さんに行くと、こういう新たな出合いがある。一緒に行ったM下さんは、「大好物」の羊歯を手に入れた。それがまた見たこともないような上品で美しい羊歯なのでした。




 これは朝散歩の道草。簡単に手折ることができたので持ち帰り、小さなマスタード瓶に生けてみた。

 名前を知るべきか、知らなくてもよいか? ずっと昔、女性登山家で医師の今井通子さんがどなたかとTVで対談していらして、そのどなたかは「知っているべき」と。一方今井さんは「知らなくてもよい」ときっぱり仰っていた。知らなくったってその美しさに変わりはない。そこにあるだけで感動する、と。わたしも聴きながら、そうだそうだと思った。当時は植物の名前に無頓着だったし、当時より少しは知識が増えた今も、今井さんの意見に賛成。

 それでもこの、朝散歩の美しい植物はちょっと気になった。先端に花が咲いている。小さな小さな簡素な白い花。それが実になってゆく過程。その実が黒く色づく過程。そのすべてが、この短いひと枝に収まっていることに感激した。まるで人の一生をたどるときのような、バージニア・リー・バートンの絵本『せいめいの歴史』のページを繰るときのような感激。




 こんな時に強い味方がいる。沼津クラスの通称アリババコンビ、アリーさんとバーバラさんに訊けば、必ずどちらかが答えてくれる。道端で静かに、こんなすごいものを見せてくれるこの偉大な植物の名は、イヌホオヅキ、というそうです。

 イヌとつく名をもつ植物は結構あるそうで、本家本元に比べて役に立たない、という意味があると、これは別の植物エキスパート、Mさんから以前教えてもらったこと。しかしはなはだ不名誉な冠。「しつれいしちゃうわよ」です。

 このイヌホオヅキは、ホオヅキと呼ぶには実がかなり小さいが、よおく観ると、ホオヅキ様の筋が透けて見えたりして、ゴメンナサイ。なるほどです。




 20年近く親しくして頂いている、ハーブ研究家の永田ヒロ子さんが本を出されました。『季(toki)の香り』(講談社)には、永田さんが今までずっと取り組まれてきたハーブの世界。ハーブにまつわるお話、旅、学び、日々の暮らしが明るくなるヒントがいっぱいです。

 以前プロデュース頂いた「ジャパンハーブソサエティー」のワークショップについても写真入りでご紹介いただいています。私の教室HACにも長くご参加いただき、創作された作品も登場。光栄です。

 ぼんやりただ眺めるだけで満足していた私が、植物の魅力を教えてくださる永田さんのような先輩、Mさん、アリババコンビ、貴重な友に恵まれたこと、おかげで世界が広がったこと、感謝しています。

19 Oct 2021

 



そんな秋

 外は冷たい雨が降っている。昨夜はとうとう電気ストーブを点けました。このまま季節をスキップして、冬になってしまうのか。最近は春も短いし。四季のある国に生まれたから、それぞれの季節の風情に気持ちが助けられますが、特に寒と暖の境目の春と秋は、色彩がカラフルで想像力を刺激される。その季節が短いのは寂しいこと。景色が一層胸に迫る。

 今日は雨でチャンスを逃したが、近所の散歩コースは、今、柿の実が鮮やか。朱く熟れたものとまだ黄色いものとが混じる。緑の葉は光を受け一枚一枚違って輝き、見上げれば青い空とどちらが背景かわからないくらいに混じり合って映る。向こうに広がる宇宙の無限。一瞬違えば、目に留まらず、立ち止まりもしなかったかもしれない。

 たとえば、歩きながら地面に美しい落ち葉を見つける。ま、いっか・・・と通り過ぎた後、いや、やはり家に持ち帰ろう、押し葉にしようと戻っても、さて絶対に見つからない。

 出合った時が吉日で吉時間。時間は止まらないし、戻らない。ビートルズは 'Life is very short' と歌ったが、私は 'You only live once'「人生は一度」という方が好き。坂東玉三郎さんは「生まれ変わったら?」の質問に「生まれ変わりたくない」ときっぱり答えた。そのくらいの心意気で、柿を見上げたい。そんな秋です。

 


 

14 Oct 2021

 


わたしの一日

 英国のロックバンド、The Who の名曲に '5:15' というのがあるけれど、これはまさにその時間の写真です。同じ薄暗さでも、夕方とは違う朝の雰囲気が伝わるでしょうか。

 ロンドン暮しのはじめ、1年間下宿させてもらった親しい友人の家では、玄関にキャンドルを灯すのが習慣だった。玄関を入ると廊下があってその壁際に、当時はアイアンのキャンドルスティックが取り付けてあった。地震国の出からすると、アンビリーバボーな景色です。

 夕食のテーブルにも、四季を通じてキャンドルが灯った。夏は庭で夕食をした。庭の木にキャンドルが提げられた。すべての家がそうするわけではない。友人はキャンドルの温かな灯を好んでいたのだ。

 すっかりその魅力を刷り込まれたので、私も向こうで一人暮らしを始めてから、キャンドルを切らすことはなかった。しかし帰国後はそうはゆかない。ちょっと寂しい思いがした。

 だから何年か前に、ニトリでこのLEDキャンドルを見つけた時は、うれしかったな。本当は細いテイパータイプが欲しいけれど、贅沢は言えませんよね。先日の地震も怖かったし。これは単三電池で使えるので、充電式の電池で、毎晩、毎朝、灯しています。もちろん本物とは違うけれど、better than nothing。ないよりはマシです。

 


 さて、朝起きて偽キャンドルを灯したら、台所で水出しの緑茶を温めて2杯飲む。そしてごく簡単な朝ごはんを食べます。

 しっかり作ってみたり、作らなかったり、お茶漬けだったり、パンだったり、おにぎりだったり、ある期間続けると飽きて別なパターンに変わってゆくのですが、とにかくとりあえず、なるべく早くお腹に何か入れることにしている。それが身体にいいとどこかで読んだので。

ふたつの薬缶にお湯を沸かし、一日分のコーヒーとルイボスティーを淹れます。コーヒーは豆乳カフェオレ。牛乳は飲まない。パンはスーパーで必ず手に入るパスコのマフィンかクロワッサンでいいんだけど、ジャムは冷凍のラズベリーで作った自家製に限る。パンに付けるのに、ラズベリージャムほどおいしいジャムは他にないと思う。

 年齢を重ねると、自分が好きなこと、必要なことが、よりはっきりしてくる。四の五の言って迷ってる時間も余裕もない。もう、これとこれとあれとあれがあれば私は幸せ、という気持ちになってくる。(その、あれとかこれが、結構欲深いという事情は置いといて。)

 とはいえ、断捨離とは無縁で、仕事部屋の棚はご覧の通り。細かいコレクションでいっぱい。この小さきものたち全部が、私を元気にしてくれるから、とても整理などできません。




 この部屋で、今日も愉快なオンラインレッスンを行なうことが出来ました。あっ、必要!と思うと、参考資料を出したり、オブジェをご覧に入れたりできるんで、愉しくてたまらない。これでPCの画面越しに、「はい!」と素材を渡せたら最高なんだけど。冗談を言ってみんなで笑う。

 さっき生徒さんのおひとりがLINEで、今日のキーワードをフィードバックしてくれた。


    今日はムード、リズム、説明しすぎない、
    古いものは完璧でないのが面白い、パンクな作風、
    がノートに書かれました。

    さらに「ムードが無形の記憶」だなんて、なんて詩的!


 ノートに走り書きしてくださっているのだ。こうして手ごたえとともに講座が行えた日は一日が充たされた思いがするし、脳も活性化される。ありがたくてありがたくて・・・、ありがたい。




 そしてまた日が暮れて、夜になる。今夜もぐっすり眠って、また明日も5時15分に一日が始まります。

9 Oct 2021



フラーの教え

 今日はオンラインの水彩レッスンで、この絵を描きました。生徒さんのAさんにデモンストレーションをご覧に入れた。グリーンのバリエーションについて、また下描きにとらわれずに描くことについて、描きながらお話しました。

 Aさんにお話しながら、自分も学ぶ。私は下描きが苦手で、ほぼすべての絵は書道のように一発描きで描いてきました。しかし下描きをすることで、もう少し複雑なことが可能になる。生徒さんたちがするのを見て初心に返り、ヨシ、私もやってみようと思ったのです。

 下描きは一度目のデッサン。その上に筆と水彩で描くのは二度目のデッサン。そのくらい気持ちを新たに描いてみたら、好奇心が失せずに面白く描けた。拡大すると、下描きの鉛筆と実際のペインティングが、合ってないことがわかると思います。

 とにかく、面白くなければ、絵なんか描く意味がない。新しい発見に満ちた冒険でなければ、絵を描くことはただの退屈な作業です。一瞬一瞬を愉しみ、一瞬一瞬あたらしくなる自分がいなければ。

 たとえば、幼いこどもはそれを難なく行ないます。私には甥と姪が合計3人ずついますが、どの子も小さな頃はとっても創造的。ここに遊びに来ては「絵の具する」と非常にしつこくせがむ(そのうち何か訊いても「べつに」とか言うくせに)。彼らは色鉛筆では満足できない。絵の具は、粘土細工と同じような「体感」の大きな画材だと思います。

 こどもが「絵の具する」のを見ていると、絵の具を溶くことからもう愉しんでる。いや、白い紙が目の前に置かれ、水入れとか筆が並んだ時点でワクワクの頂点。溶いた絵の具をじゅわっと紙の上に置いた途端、目の前の宇宙がガラッと変わる。その悦び、興奮が伝わってくる。




 亡くなったジャーナリストの立花隆さんが、だいぶ前に新潮社のウェブサイトで、バックミンスター・フラーから贈られた詩を紹介していた。座右の銘の持ち合わせはないけれど、この詩から、その代わり以上の意味を与えられ、机の前にいつも貼っている。


   Environment to each must be
     'All that is excepting me.'
     Universe in turn must be
     'All that is including me.'
     The only difference between environment and universe is me.....
     The observer, doer, thinker, lover, enjoyer

            Richard Buckminster Fuller


 私なりに訳してみます。


   個々の人間にとって「環境」とは
   「自分以外のすべて」を意味する。
   同様に「宇宙」とは何を意味するか。
   「自分を含むすべて」である。
   環境と宇宙のただひとつの違い、それは「自分」。
   観察する、行為する、考える、愛する、愉しむ自分。
   (が含まれるか、含まれないか。)


 バックミンスター・フラー(1895-1983)は、アメリカの思想家、デザイナー、構造家、建築家、発明家、詩人。そうWikipediaにある。私はたしか、まだ20代の頃「美術手帖」でその存在を知った。フラーの特集が掲載されていた。

 まだ幼い頃、人はお金を稼がなければ生きてゆけないのだと周囲から知らされる以前の子ども時代に、自分はどんなことを考えていただろう。何を愉しんでいただろう。それを思い出すことにはとても価値がある。そんな内容の一文に出くわして驚いた。そんな時代が、確かに誰にとってもあったのだ。

 芸術は金銭とは何の関係も無いもの。自由に創作したその結果、副産物のように誰かの心の深いところにそっと響くものだと思う。だからレッスンではのびのびと描くこと、その一点をお伝えしたいといつも思う。私の余計なアドバイスで、その方の人生の独自な輝きを消すわけにはゆかない。自分自身に忠実に描くことほど、難しいことはないけれど、それはできない事じゃない。

 けっして勤勉な絵描きではないけれど、絵を描くことから、自分は多くを学んでいると思う。温暖化が進み「環境」という言葉が地球上を大きく行き交っている。その「環境」に「自分」は含まれているだろうか。絵を描くときと同じように、傍観者の立場からではけっして何事も解決しないということ。フラーの言葉に、あらためて教えられます。



24 Sept 2021

 



きっちり足に合った靴

 新しい靴を買いました。靴を履いて出かける機会もめっきり減ったけれど、スペインのメーカー、カンペールの靴が好きで、これでかれこれ4足目。

 私の足はなにしろ問題がいっぱいなのです。まずひどい外反母趾。これは若い頃からひとりでタッタッタ・・・、速足で歩く癖が災いしたのだと思う。ヒールの靴は、ほとんど履いていませんでしたから。そして甲高幅広。しかも年齢と共に足の裏が妙に敏感になり、近年厚底がありがたいことに気付きました。

 若い頃、イギリスで靴を初めて買った時(イタリア製とスペイン製だった)、履きやすさに感動だった。やっぱりヨーロッパは靴の歴史が違うんだと思った。冬用のコートを買った時(これは英国製)もそうだった。厚手でも、腕をぐるぐる回せるんでびっくりした。

 ファッション性が高いのに不思議なネーミング。カンペールとは、スペイン語で「農夫」とか「田舎の」とか「素朴な」という意味だそうです。

 今回求めたのは、幼い少女の頃履いていたような、甲の上にストラップがあるタイプ。がしかし、かなりヘヴィーデューティー。靴底↓をご覧ください。スニーカーなのです。




 そのごつさに、ちょっとひるんだ。でも意外にも鏡に映すと暑苦しさがない。これこそデザインの技というものですね。いつものように足入れもばっちりだった。スペインでは、私のこの不格好な足みたいなのが定番なのだろうか? そんなわけない。でもなぜかぴったりなんだ。我らが近所の田舎道も、これで恐れる必要はない。どんどん歩くぞ!

 靴を求める時に、必ず思い出す本がある。作家の須賀敦子さんの本。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」。この印象深い書き出しで始まる『ユルスナールの靴』。

 書き出しで心つかまれたわりに、私には難解な内容で、須賀さんが淡々と紡がれている言葉に惹きつけられるものの、テーマであるフランスの作家、マルグリット・ユルスナールという女性の輪郭さえつかめず、なにか煙のような雲のようなぼんやりとした塊としてしか、心にイメージが結ばれなかったのを覚えている。私の経験や知識が少なすぎるせいだと思う。 




 しかしその煙は、薫り高く、気高く、胸にずっと残る煙。自分の小さな力では計り知れない何かこそ、自分を育ててくれる大切な教えなのだという、いつもの予感があった。

 幼い日に与えられた本に、まだやっとひらがなが読めるようになった自分には不釣り合いな、小さな文字の分厚い文学全集の一冊があった。読んでも読んでも意味が分からない。でもその表紙にはひどく惹かれた。大きな森の大樹の根元に小さな鹿が一頭佇んでいる。ヨーロッパのおそらくは古い絵画。ヴィタ・サックヴィル・ウエストの生家で、ヴァージニア・ウルフの小説『オーランドー』の舞台となった英国ケント州のノール城を訪ねた時、それと似た景色を観た。ああ、あの本が私をここへ導いたのだなとわかった。そんな、理解を超えた何かというものが確かにあることを、私は信じます。

 横道にそれました。

 とにかく、ユルスナール本人の本を読んでみたくなった。きっと難しいだろう。でも分からなくたっていい。須賀さんがここまで思い入れを持つ作家なのだもの。つまらないわけがない。この『東方綺譚』には、ウルフや、それからもう一人私の好きな難解作家、ボルヘスにも通じる、奇妙、不思議、悪夢のような物語が静かに繰り広げられる。

 久しぶりに本を開くと、たとえば、こんな言葉に私は傍線を引いている。


 「人種や民族のかぎりない多様性が全体の神秘的な統一を乱していない」


 再び読んでみよう。またきっと発見があるはず。

 須賀さんは『ユルスナールの靴』の最後の方で、ユルスナールが実際に履いていた靴について書かれている。ピンタレストで、その靴を発見した。須賀さんが見たのと同じ写真ではない。シチェーションが違う。でもこれに違いないとすぐわかった。ああ、いいなぁと、私も思った。甲にストラップのある、軽くてやわらかくて履きやすそうな、美しい白い靴だった。

17 Sept 2021

 



急に海が見たくなって

 このコロナ禍の疲れは、私のようにお家大好き、非社交的な者にとっても、じわじわとボディブロウのように効いてきたように思う。

 幸いにして、多くの生徒さんのおかげでオンラインのレッスンは順調で、毎日のようにどなたかと顔を合わせては、愉快な会話と学びに恵まれている。生徒さんたちも、このレッスンを日々の励みに思ってくださり、お互いによいエネルギーの交換が出来ている。本当に、心から感謝しています。

 子どもの頃から楽観と悲観が同居する。そんな自分が今この状況をどう見ているかと言うと、まだ何年も(もしかしたら何十年も)Covid は続くんだろう、いつ終わるかは誰にもわからないだろう。

 加えて、気象の変動もある。それこそ人間と生きものにとっての時間との闘い。時間・・・。親の介護という直近の課題も早10年生・・・。

 課題まみれの毎日を、どうやって乗り越え、またそこから自分は何を得、学んでゆくんだろう。自分の姿勢。それこそが大きな課題だと気づく。

 だからなんとか工夫して、生き方や考え方を変えてゆかねばならないだろう。もう元の世界には戻らないのだから。変えてゆけば急には無理でも、少しずつなんとかなってゆくかもしれない、そんな空中ブランコみたいな宙ぶらりんの信念ではあっても、希望はけっして捨ててはいけない。なぜなら希望は「にもかかわらず」持つものだからです。




 幸いここには、海があり、山がある。しばらく海には行っていなかった。そうだ、ちょっと行って見ようかなと思いついたのは、よりによって小雨が降る暗い日のことだった。

 目の前の鈍色の巨大プール。期待と違って、ちょっと怖い。ここに落ちたらどうなるんだろう。疲れているときには、何事も悪いほうへと考えが向かう。

 それでも、おおきな自然とひとり対面することは、自分の小ささを思い出させてくれた。お薬のように、その後の気持ちを楽に、また積極的にしてくれた。

 波の音に刺激されたのか、聴力が変わった。翌日、朝の散歩で虫の声に耳傾ける自分がいる。秋の野の花の色彩にもハッとする。何かが変わったように思う。

 そうだ、昔からそうだったじゃないか。今ここにない物よりも、あるものに目を向け、「あるもの」で「ないもの」を作るのが自分の仕事だ。自分が持っているものを、すべて生かし切っているだろうか? まだ生かしていないものがあったら、それが古い記憶であれ、身辺の自然であれ、集めたヴィンテージやがらくたであれ、まだ試みていなかった画材であれ、新しいインターネットの機能であれ、生かし切らないと、と思った。鈍色の海を見て。




3 Sept 2021

 


やさしい猫

 スリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんが名古屋出入国在留管理局で亡くなった。一連の痛ましくショッキングな報道に接するにつけ、遡って昨年春から一年間、読売新聞に中島京子さんが連載された『やさしい猫』が、いかに重要な小説であるかに、一層深く重く感じ入る。

 「今度の小説は難民をテーマに・・・」と伺ったのは、一昨年の秋だったと思う。難民と聞いた時、シリアなど中東の人々、または国を追われたロヒンギャの人たちについて書かれるのかなと、とっさに思った。しかし待ちに待った連載が始まると、それは日本国内に、私たちの隣人として暮らす難民のことだった。

 京子さんのことだから、以前からずっと構想を暖めておられたと思うし、執筆に際しては労を惜しまない丁寧な取材をし、膨大な資料の山と静かに格闘されたことと思う。

 しかしながらこの小説に、社会問題に立ち向かう堅苦しさはまったくない。タイトルからしてまさに「やさしい」し。

 誰もが日々の生活のなかで、目を凝らしその気にさえなれば見えるもの。視界の隅からぐぐっとその景色をセンターに持って来ると、その重いテーマが、私たち一人一人の個人的な問題であることに気付かされる。私たち一人一人が、他者をどのように見ているのか、感じているのか。

 今開催中のパラリンピック。TVをじっと観る時間はなかなか無い。でも、たとえ断片的ではあっても、自分の小ささを思い知らされる驚きと感動の連続。画面の向こうで繰り広げられているのは確かに競争なのだけれど、メダルの色や順位に関係なく、お互いを讃え合っている選手たち。オリンピック、とくに若い選手が活躍したスケートボードにも、同じことを感じた。国の威信をかけて、はもはや昔。オリンピック開催には複雑な思いだったが、以前より「個人」が際立つ世界が目の前に繰り広げられて、大いに学ぶ機会になっている。

 コロナに収束はあっても終息はないと、どこかで読んだ。その収束さえ、どこにいつあるのか、誰にもわからない。気候変動が加速しているのは言わずもがな。人の知恵で、そのスピードを抑え込まないと。自分に出来ることは何か。アフガニスタン。なぜいつまでも、人が人を殺さなくてはならないのか。

 私たち一人一人が、他者をどのように見ているのか、感じているのか。日常生活を送りながら、誰もが仕事や子育てや介護で慌ただしい毎日を送りながら、出来ることって何だろう。

 京子さんの小説は、いつだって弱い者の味方。だから私は、京子さんの描く物語が大好きなんだ。その自然な眼差しで、難民が抱える重い問題を身辺の問題に引き寄せて、私たちが自然に心を開けるように、この小説は存在する。 

 ぜひ今、手にとって読んで欲しい一冊です。

 

『やさしい猫』中島京子 著 / 中央公論新社


16 Aug 2021

 


I ❤ 野菜

 子どもの頃、夏のおやつはアイスかかき氷、またはトウモロコシかトマトだった。いや、スイカだってあったし、時には、いえ、ごくまれには、メロンやパイナップルだって食べたことはあるけれど、果物の魅力はその姿にあって、幼い私はなぜか野菜の味の方が好きだった。キュウリにお塩を振ってかじるのも好きだった。

 ご近所のEさんは、ご夫婦でお庭をきれいに作られていて、通りに面した家庭菜園も見事。毎朝早くから手を入れて、もちろん無農薬で丹精込めて育てたお野菜を、ご主人が収穫している。

 先日来、続けて二回も立派な茄子を一抱えずつ頂いた。茄子は大好き。その eggplant と呼ばれる形も、茄子紺と云う底知れない深いおもての色も好き。淡白な味わいながら中年以降に突然味を出す名脇役の役者さんみたいに、一旦鍋やボウルに入れたらいろんな役柄を丁寧にこなす。尊敬しています。本当に。




 instagramに今朝アップしたのはまず、向田邦子さんレシピの「茄子の田舎煮」。Eさんのお茄子で作るのは、もうこの夏3回目です。何回だって作りますよん。だって美味しいんだもん。山のように煮ても、すぐなくなっちゃう。だって美味しいんだもん!

 まず茄子のヘタを取って、縦二つに切り、皮目に斜め格子の包丁を入れます。それから大きめに乱切り。小さいと溶けちゃうから。薄い塩水に浸けてアクを出しザルで水切りします。

 鷹の爪を2~3ミリ幅で切る。種は取っておく。この種コレクションがある程度の量になった時役立つ、イギリスでKさんに教わった混ぜご飯があるのだ。またいつか紹介します。

 少し前、深めのフライパンを買った。ステンレス派になるぞと意気込んだけれど、使いこなせずあっさり降参しました。やっぱりコーティングのフライパンはすごく便利。チャーハンも焼きそばもパスタも煮物も何でも来い! そんなフライパン、または厚手の鍋でもいいので、サラダ油を熱し茄子と鷹の爪を炒める。よく炒めます。

 そこに水をひたひたまで入れ、私は茅乃舎のだしを1パックとお砂糖を結構たっぷり入れる。向田さんレシピだとお出しは入れず、茄子6個に大さじ2杯のお砂糖とある。落し蓋をして中火でコトコト煮る。

 お茄子がやわらかくなってきたら、向田さんはシンプルにお醤油ですが、私はめんつゆで味付け。屋上屋を架すようだけど、よりこっくり仕上がるように思う。

 再び落し蓋で、お茄子がしっかり味を含むまで煮て出来上がりです。あら熱が取れたら、保存容器に移し、冷めたら冷蔵庫へ。翌日が最高に美味しいです。




 一方こちらは洋風の一品。平野レミさんのだいぶ以前のお料理本『お料理しましょ』より、その名も「ナソワーズサラダ」。

 ネーミングの天才レミさん。サラダ・ニソワーズのニソワーズから取った・・・とはわかっても、それは何? フランス、ニース風っていうことで、様々な野菜をツナやアンチョビや黒オリーブ、ヴィネグレットソースで頂くとニース風サラダになるということが、Googleのおかげで瞬時にわかった。ひとつ利口になった。

 レミさんレシピでは、茄子を茶せん切りにして直火で焼いて皮をむくとある。パプリカなどでも直火で焼いて皮をむくとよくあるけれど、これは手間がかかるし火傷しそうになって、覚悟の無い私は作る前からつらくなってしまう。なので、電子レンジで蒸すことにします。

 先にピーラーで皮をむいて、ラップで包み、レンジでふっくらやわらかくなるまで加熱しましょう。取り出したら注意深くラップを剥がし(熱いから)、しばらく放置(熱いから)。あら熱が取れたらおもむろに縦に裂き、冷まします。

 ドレッシングを作ります。私はキューピーのイタリアンドレッシングをベースにします。和風でも中華でも、このイタリアンドレッシングからアレンジして作ります。ニース風も例外ではない。アンチョビー、にんにく、玉ねぎのみじん切りを混ぜて、レモン風味のオリーブオイルをタラーッと回して香りを加えた。

 このソースに冷めた蒸し茄子と黒オリーブ、色合いのきれいなトマトやパプリカをカットして、マリネのように冷蔵庫で漬け込んで完成です。パセリを散らしたら、もう立派な前菜ですね。




 もう一丁、オマケ。この混ぜご飯も大好きで、以前はよく作りましたが、久しぶりに作ったところ、この組み合わせの普遍性にあらためて納得。やっぱり美味しい。

 これもレミさんレシピより、です。私の身体は、実は半部以上がレミさんレシピでできています。素材と素材のハーモニーやリズムはレミさんが歌手であることと無縁じゃないと思う。心優しく、でもピリッとシャキッと潔いところ、さりげなく国際性に富んでいてお洒落なところ、それでいて庶民のお財布感覚だし、ちょっとワイルドで乱暴なところも魅力。レミさんのおかげで、様々な食材を知ったし、アレンジの仕方も知らない間に覚えたような気がする。本当に大ファンです。

 搾菜は他にも高峰秀子さんレシピ(『台所のオーケストラ』)で、冷ややっこのたれの絶品があり、冷蔵庫に桃屋の瓶詰めを常備しています。

 その搾菜をまずみじん切り。それから油揚げ。油抜きしてから一枚ずつラップに包み冷凍してあるので、凍ったままお醤油とお酒を混ぜたタレに浸して、両面を弱火のグリルかオーブントースターで炙り焼きにします。途中お醤油たれをつけ直すと一層香ばしい。焼き上がったら、細切りにします。

 温かいご飯に、搾菜とお揚げの香ばしいのを混ぜて、白胡麻を振って、あっという間に出来上がり。レミさんは、三つ葉を散らしてる。お代わりしたくなる美味しさです。


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 美味しいものをこしらえて食べることは、自分を守るし人を守る。よかったら、ぜひ作ってみてください。

6 Aug 2021

 


続・類は友を呼ぶの法則 その1

 英国の刺繍作家でデザイナー、スタイリストでイベントプロデューサーでもある Caroline Zoob さんのことを知ったのは、今から20年ほど前の雑誌、Country Living の誌面でした。当時私はこの雑誌の仕事を始めて3年目。ロンドンから日本に帰国することになり、アートディレクターのヘレン・ブラツビーが、これから私の絵をどうやって使ってゆこうかと考えあぐねていた頃だと思う。なのでこの号に私の絵は掲載されていない。

 その後、当時はまだFAXだったけれど、やり取りを続け、フェデックスで作品を送ることになり、11年も仕事を続けることができた。ヘレンには今も感謝している。

 とにかくこのCaroline の、明快で澄んだ、どこか音楽的なセンスを感じる作品群には一発で参りました。特に、ミシンのボタンホールステッチでアップリケをするテクニックがスタイリッシュでありながら温かく、完全にノックアウトされた。

 その数年後、長期滞在した際には、彼女のグッズを扱うショップがロンドンのクラッパム・ジャンクション駅付近にあるとどこかで読み(当時はスマホはおろか、PCを持つ人もまだ少ない時代)、当てずっぽうに訪ねてみた。でも内装工事中で、お店はお休み。Carolineデザインの愛らしいマグカップを、内装職人の肩越しにうらめしく眺めたのを覚えている。

 滞在中スコットランドに旅した時に、たまたま入った書店で新刊 'Childhood Treasures' が目に飛び込んだ。迷わず手に入れた。





 そんな風に憧れのデザイナーであったCarolineさんと現実にご縁を得る機会を作ってくれたのは、東京で偶然私の個展を見てくれて以来の親しい友、Helenさんだ。

 帰国後ほどなくして、私が毎年個展を開かせてもらっていた麻布十番のギャラリーは、通りに面したガラス張りの広々とした明るいギャラリー。ここでは本当に多くのよき出会いに恵まれた。

 Helenさんはその日、ギャラリーの前でアメリカ人の友人とタクシーを降りたそうだ。「あら、あなたの好きそうな展覧会をやっているわよ」。友人に促され、ふたりで会場に入った途端、Helenさんはビックリした。母国で見慣れた小さなイラストレーションが、会場いっぱいに飾られていたから。Helenさんは、私のCountry Living での仕事を、切り抜いて取っておくほど気に入ってくれていたそうで、まさか遠い日本で、このイラストレーターの絵を観るなんて、想像もしていなかった。

 眼をまん丸にしたHelenさんと会場で話をし出したら、他にも「えっ!?」な偶然が重なっているのがわかり、けっして大げさでなく、これは何か運命的な出会いかもしれないと、お互い感じざるを得なくなった。

 それからもう十数年は経ちますが、遠く離れても途切れることなく親しい関係が続くのは、寛大で優しく、知識豊かでありながら、日本人以上に慎み深いHelenさんのお人柄に、私が多くを学んでいるからだと思う。それからもうひとつ大事なこと。共通のユーモアのセンス。これって友情に不可欠なエッセンスだと私は常々思うのですが、どう思いますか?

 脱線しました。急いでひとつふたつみっつ、駅を飛ばしますと、Helenさんは、なんとCarolineさんと友人であったのです! Carolineさんに会えるかもしれない!!

 このご縁には、もともとHelenさんの紹介で仲良しになった、日本在住のBeckyさんの助けもとてつもなく大きかった。Helen さん、Becky さん、二人のおかげで、私たちHACの有志で敢行した二年前の英国アートツアー(代理店に頼らず、ベッキーさんとゼロから計画を立てた、滅多にない手作りの旅)の際、なんと、Carolineさんのワークルームで、ワークショップの交換をすると言う、みんなして一生の思い出に残る素晴らしい交流を刻むことが出来たんです。ミラクル!!

つづく



 短く枝を切り戻した株から、この暑さにもめげず、フォックスグローブが短くけなげに咲いています。刻々暑くなってゆく朝の草取りも、この子たちのおかげで心穏やかに。

2 Aug 2021

 



ワクチンを打った日

 「しずてつ」というスーパーが沼津駅前のビルと隣の長泉町にあり、今までも時々行っては美味しいものを物色するのが至上の喜びだった。新店舗が、今までより少し車をとめやすく、また少し行きやすい場所にオープンしたので、足しげく通っています。このスーパーには魚河岸寿司という寿司店が入っている。↑のにぎりなど、ワンコインとは言わないまでも、ほぼその感覚で購入できるので、買ってきては好きなお皿に並べて、目もお腹も大満足。本当は毎日でもいいくらいお寿司が好きです。よって、この地に暮らすことは、大きなメリット。




 このスーパーは野菜が美しく、それも魅力です。そもそもはACギャラリーでの「菜画展」をご覧くださった花森家具のNさんが教えてくれた。画題にしたくなる新鮮な地元の野菜が、目に鮮やかに陳列されている。

 今日はまずこのスーパーに保冷バッグを携えて出掛け、夕飯用にと父のお弁当と自分用キーマカレー&ナンを購入してきた。なぜなら、第一回のワクチンの日だったから。万が一、夕飯どころじゃなくなったら困る。念のため、手のかからない食料を調達しておいたのです。

 打ち終えて、もう何時間も経つけれど、幸い副反応はない。熱も出ない。ありがたい。

 市の運営する巨大なイベントスペースには、整然と導線がめぐらされている。市の職員の方々か、スタッフも親切でキビキビと働いていた。同世代の男女の列は、まるで大規模同窓会。問診のドクターも、プスッと痛みのほとんどない注射を一瞬で打ってくれた看護婦さんも優しかった。待機時間の15分をサクサクと終えて帰宅しました。

 出掛ける前に観たTVでは、ワクチンを打ってももはや決定打の解決にはならないということが米国で分かったとかで、今から打つ身にはちょっとがっかりではあったけれど、やっぱりこれは長丁場になるんだなと気を引き締めて腕を差し出してきた。 

 この間も書いたように、コロナ禍の中にあって、以前よりイギリスの友人たちとの距離が縮まり、オンラインで親しく日常の会話をするようになった。みんなもうとっくにワクチンを終えている。あなたはいつ?と訊かれるたび返事に困った。日本はすごくしっかりした国のイメージがあるけれど・・・と言われると、さらに困った。

 ロックダウンについては、この日本で人々が考えるような生易しいものではなく、その様子に接するたび、ショックを覚えた。

 まだ厳しいロックダウン下だった頃、ある友人からうらやましそうにこう言われた。

 「それでも日本ではスーパーで買い物ができるんでしょう?」
 「食料品、生活必需品はすべてデリバリーなの。もう1年も買い物に出かけていないのよ」

 またある時には

 「もう一年以上美容院に行っていなから、自分でやってるの。かなり上達したわ」

 別の友人は、ご主人がカットしてくれると言っていた。

 友だちは勿論、近所に住む家族や孫とも一切会えない。または玄関前で距離を取って会う。家には入れられない。迎えるには、様々な証明書が必要になる。人のいない早朝や夕方に散歩をして、体力を維持する。息子さんの結婚式は延期、また延期・・・。

 ロックダウン全面解除の少し前、ようやくのこと、友人夫婦は息子さんと花嫁さんの結婚式を催すことが出来た。コッツウォルズ独特の石造りの納屋を改造した素晴らしい会場だったそうで、はちみつ色の夢のような景色を想像せずにはいられず、うっとりする。人数を抑えマスクをして、それでも親類や友人たちを呼ぶことが出来、泊りがけで数日間に及ぶお祝いの儀が愉快に行われたという。その話をZoom meeting で聞きながら、別のイギリスの友人が胸を押さえ、涙ぐんでいた。「よかったわね、ほんとうによかった・・・」言葉を詰まらせた。

 その姿を見て、ハッとした。ロックダウンの厳しさを、会話やニュースから知ったようなつもりになっていたけれど、本当には分かっていなかったんじゃないか。自分の口から出た「よかったわね」に相応の重さはなかったことに気付く。軽かった。自分が恥ずかしくなった。

 TVで最近、ロックダウンと言う言葉が、専門家からチラチラ聞こえてくる。私の住むこの国は、どこに向かっているんだろう。

 オリンピックのTVに映る、この禍を共有する地球の仲間たちの様々な顔、顔、顔を見る。特殊な鍛錬を経て、人知れず耐え忍んで、自分を追い込んで、技術を磨いた超人たちの首にメダルが輝く。一方で、私たちみんなの胸にも金メダルを!と思ったのは、私の手から、小さくて素朴な貝がらのメダルが生まれたから。

 室内で気分を上げる小さな何かを、小さな脳内でああでもないこうでもないとこしらえながら、心は常に窓の外へ解き放たれていたい。人類の英知を信じて進んで行くしかない。




Dream a Little Dream

 8月のアートクラスのために、サンプルを作った。もう今日から8月。やることが遅いぞ、自分。足りない材料は明日の発注。どうか最初のオンライン受講メンバー、Tさんの日に間に合いますように。

 ・・・と言う風にいつもギリギリにならないと腰が持ち上がらない。今月は特に、迷走しまくった。それでもこうして、自分がどうしても欲しいもの、ご紹介したいもの、「よし!」と思えるものに行き当たったのだから、感謝です。

 いつもHACのための課題を考える時、自分の中でいくつかの基準があります。


 1.素材が人数分集まるか?(これは大事)

 2.自分が飾りたいものか?使いたいものか?一緒にいたくなるものか?(自分がすごくいいと思ったものなら、10人中10人ではなくても、きっと誰かに伝わるという信念のもと)

 3.今までやったことの無い、初めての試みか?

 4.季節感のあるものか?

 5.時間内に説明可能か?

 6.その後の創作に生かせる内容か?

 そして、

 7.ロンドンの LIBERTY の陳列棚にあっても、不自然ではない質を持っているか?

 
 イギリスにいた頃、大好きでよく行ったデパート、LIBERTY。一昨年訪ねた時は、あいにくなのか、たまたまなのか、商品をあまり愉しめなかった。ザンネン。でもあらためて建築の面白さを味わい、板張りのギシギシいう床を踏みしめながら、そこでの記憶を反芻するだけでも幸せだった。

 私のグリーティングカードが売られていたのを教えてくれたのはミリアムだったなぁ、とか。急いで見に行って、うれしさのあまり、何度も何度も棚の前を行ったり来たりしたことなど。イチジクの香りの香水を買ったこと。ペーズリーの柄のスカーフを買ったこと。気に入った洋服にもいくつか出合った。

 その憧れの LIBERTY の売り場に「もしかして、あってもいいかも!」と思える何かを生み出すことが、厳しい条件でありながら、自分的にはすごくわかりやすい基準なのです。アイデアはポンと出て来ることもあれば、今回みたいに右往左往迷走してしまうこともある。

 今日やっとこさ仕上げたのは、貝殻の Ring Dish 。結果的に、先月のボタンの指輪からバトンタッチみたいになりました。これがまたまた気に入っちゃった。明日も忙しい。そろそろ寝なくちゃ、なのにうれしくて、さっきから手にとっては眺めニンマリしているところ。




 みんなにも気に入ってもらえますように!

19 Jul 2021

 


ポケットをたたくと

 7月の課題に選んだのは、ヴィンテージボタンで作る指輪とブローチです。以前からやりたかったことでした。ポケットをたたけばビスケットが出て来るように、レッスンのたびに新しい「宝石」が生まれる。魔法みたいだね。うん、ほとんど魔法だね。心で独り言をつぶやく。

 コロナになってから不思議なもので、イギリスの友人たちとの距離が縮まった。長年の友、ブロカントのフェアを企画したり、ヴィンテージの販売もしている Cary には、素材の調達でお世話になっている。 今回も予算を先に伝え、ヴィンテージ素材をたくさん送ってもらった。ヴィクトリアンの硝子ボタンや、古い貝ボタン、アールデコ調、キャンディみたいにカラフルなの、今後の創作のインスピレーションを刺激する小物が次々箱から出てきて、クリスマスの前借りみたいにワクワクした。いつもあてにしていた都内の某ショップはずっとクローズだし、その前に東京には行けないし、この状況下、最高の好物をこうしてロンドンから直送してもらえるなんて! その幸運を、少しずつ生徒さんたちとシェアしているところです。

 黄昏たもの、懐かしい何か、埃をかぶったもの、忘れ去られた何か・・・。私がイギリスの文化に惹かれるわけはそこだと思う。古いものが内包する「時間」にときめき、屋根裏部屋から、見たこともないパンチの効いた何かを生み出すパワーに惹かれる。断捨離はできない。

 問題を抱えていない人など、この世の中にいないと思う。その問題をどうやって解決するか。絵を描くことや、物をこの手で作る事、こうして文章を紡ぐことなどは、一瞬一瞬が壁との遭遇、解決探しの連続。刻々問題が起こり、刻々解決する必要がある。直面する壁を、今までと少し角度を変えて観る事ができて、未来の自分がオッケーを出す予感がしたなら、やっと前に進むことが可能になる。

 昨日たまたま観ることが出来た、NHKの「まいにち 養老先生、ときどき まる」がとてもよかった(あとでまたNHK+で観よう)。冒頭、養老孟司先生は、人が眼で見ることは1割。9割は脳で見ていると、興味深い言葉を発せられた。脳で見ている。なんだろう。視野に映った映像、それと思い出の重なりのことではないだろうかと、番組を観ながら自分なりに腑に落ちた。

 最近絵を描く生徒さんたちに、私は盛んに「思い出」を描く話をしている。赤い花を描くとします。その赤に、その形に、重なるなんらかの思い出、記憶の断片がきっとあるはず。それが作品に表れることが何より大切なことのように、近頃特に思うのです。そうでなければ、自分がその絵を描く必要があるでしょうか、とさえ思う。

 さて、ではこのポップなブローチはなんの記憶から? これを作る時、私の脳内には6歳の自分がいた。生まれて初めて読んだファンタジー、度肝を抜かれた『不思議の国のアリス』の世界がBGMで流れていたことを白状します。