19 Oct 2021

 



そんな秋

 外は冷たい雨が降っている。昨夜はとうとう電気ストーブを点けました。このまま季節をスキップして、冬になってしまうのか。最近は春も短いし。四季のある国に生まれたから、それぞれの季節の風情に気持ちが助けられますが、特に寒と暖の境目の春と秋は、色彩がカラフルで想像力を刺激される。その季節が短いのは寂しいこと。景色が一層胸に迫る。

 今日は雨でチャンスを逃したが、近所の散歩コースは、今、柿の実が鮮やか。朱く熟れたものとまだ黄色いものとが混じる。緑の葉は光を受け一枚一枚違って輝き、見上げれば青い空とどちらが背景かわからないくらいに混じり合って映る。向こうに広がる宇宙の無限。一瞬違えば、目に留まらず、立ち止まりもしなかったかもしれない。

 たとえば、歩きながら地面に美しい落ち葉を見つける。ま、いっか・・・と通り過ぎた後、いや、やはり家に持ち帰ろう、押し葉にしようと戻っても、さて絶対に見つからない。

 出合った時が吉日で吉時間。時間は止まらないし、戻らない。ビートルズは 'Life is very short' と歌ったが、私は 'You only live once'「人生は一度」という方が好き。坂東玉三郎さんは「生まれ変わったら?」の質問に「生まれ変わりたくない」ときっぱり答えた。そのくらいの心意気で、柿を見上げたい。そんな秋です。

 


 

14 Oct 2021

 


わたしの一日

 英国のロックバンド、The Who の名曲に '5:15' というのがあるけれど、これはまさにその時間の写真です。同じ薄暗さでも、夕方とは違う朝の雰囲気が伝わるでしょうか。

 ロンドン暮しのはじめ、1年間下宿させてもらった親しい友人の家では、玄関にキャンドルを灯すのが習慣だった。玄関を入ると廊下があってその壁際に、当時はアイアンのキャンドルスティックが取り付けてあった。地震国の出からすると、アンビリーバボーな景色です。

 夕食のテーブルにも、四季を通じてキャンドルが灯った。夏は庭で夕食をした。庭の木にキャンドルが提げられた。すべての家がそうするわけではない。友人はキャンドルの温かな灯を好んでいたのだ。

 すっかりその魅力を刷り込まれたので、私も向こうで一人暮らしを始めてから、キャンドルを切らすことはなかった。しかし帰国後はそうはゆかない。ちょっと寂しい思いがした。

 だから何年か前に、ニトリでこのLEDキャンドルを見つけた時は、うれしかったな。本当は細いテイパータイプが欲しいけれど、贅沢は言えませんよね。先日の地震も怖かったし。これは単三電池で使えるので、充電式の電池で、毎晩、毎朝、灯しています。もちろん本物とは違うけれど、better than nothing。ないよりはマシです。

 


 さて、朝起きて偽キャンドルを灯したら、台所で水出しの緑茶を温めて2杯飲む。そしてごく簡単な朝ごはんを食べます。

 しっかり作ってみたり、作らなかったり、お茶漬けだったり、パンだったり、おにぎりだったり、ある期間続けると飽きて別なパターンに変わってゆくのですが、とにかくとりあえず、なるべく早くお腹に何か入れることにしている。それが身体にいいとどこかで読んだので。

ふたつの薬缶にお湯を沸かし、一日分のコーヒーとルイボスティーを淹れます。コーヒーは豆乳カフェオレ。牛乳は飲まない。パンはスーパーで必ず手に入るパスコのマフィンかクロワッサンでいいんだけど、ジャムは冷凍のラズベリーで作った自家製に限る。パンに付けるのに、ラズベリージャムほどおいしいジャムは他にないと思う。

 年齢を重ねると、自分が好きなこと、必要なことが、よりはっきりしてくる。四の五の言って迷ってる時間も余裕もない。もう、これとこれとあれとあれがあれば私は幸せ、という気持ちになってくる。(その、あれとかこれが、結構欲深いという事情は置いといて。)

 とはいえ、断捨離とは無縁で、仕事部屋の棚はご覧の通り。細かいコレクションでいっぱい。この小さきものたち全部が、私を元気にしてくれるから、とても整理などできません。




 この部屋で、今日も愉快なオンラインレッスンを行なうことが出来ました。あっ、必要!と思うと、参考資料を出したり、オブジェをご覧に入れたりできるんで、愉しくてたまらない。これでPCの画面越しに、「はい!」と素材を渡せたら最高なんだけど。冗談を言ってみんなで笑う。

 さっき生徒さんのおひとりがLINEで、今日のキーワードをフィードバックしてくれた。


    今日はムード、リズム、説明しすぎない、
    古いものは完璧でないのが面白い、パンクな作風、
    がノートに書かれました。

    さらに「ムードが無形の記憶」だなんて、なんて詩的!


 ノートに走り書きしてくださっているのだ。こうして手ごたえとともに講座が行えた日は一日が充たされた思いがするし、脳も活性化される。ありがたくてありがたくて・・・、ありがたい。




 そしてまた日が暮れて、夜になる。今夜もぐっすり眠って、また明日も5時15分に一日が始まります。

9 Oct 2021



フラーの教え

 今日はオンラインの水彩レッスンで、この絵を描きました。生徒さんのAさんにデモンストレーションをご覧に入れた。グリーンのバリエーションについて、また下描きにとらわれずに描くことについて、描きながらお話しました。

 Aさんにお話しながら、自分も学ぶ。私は下描きが苦手で、ほぼすべての絵は書道のように一発描きで描いてきました。しかし下描きをすることで、もう少し複雑なことが可能になる。生徒さんたちがするのを見て初心に返り、ヨシ、私もやってみようと思ったのです。

 下描きは一度目のデッサン。その上に筆と水彩で描くのは二度目のデッサン。そのくらい気持ちを新たに描いてみたら、好奇心が失せずに面白く描けた。拡大すると、下描きの鉛筆と実際のペインティングが、合ってないことがわかると思います。

 とにかく、面白くなければ、絵なんか描く意味がない。新しい発見に満ちた冒険でなければ、絵を描くことはただの退屈な作業です。一瞬一瞬を愉しみ、一瞬一瞬あたらしくなる自分がいなければ。

 たとえば、幼いこどもはそれを難なく行ないます。私には甥と姪が合計3人ずついますが、どの子も小さな頃はとっても創造的。ここに遊びに来ては「絵の具する」と非常にしつこくせがむ(そのうち何か訊いても「べつに」とか言うくせに)。彼らは色鉛筆では満足できない。絵の具は、粘土細工と同じような「体感」の大きな画材だと思います。

 こどもが「絵の具する」のを見ていると、絵の具を溶くことからもう愉しんでる。いや、白い紙が目の前に置かれ、水入れとか筆が並んだ時点でワクワクの頂点。溶いた絵の具をじゅわっと紙の上に置いた途端、目の前の宇宙がガラッと変わる。その悦び、興奮が伝わってくる。




 亡くなったジャーナリストの立花隆さんが、だいぶ前に新潮社のウェブサイトで、バックミンスター・フラーから贈られた詩を紹介していた。座右の銘の持ち合わせはないけれど、この詩から、その代わり以上の意味を与えられ、机の前にいつも貼っている。


   Environment to each must be
     'All that is excepting me.'
     Universe in turn must be
     'All that is including me.'
     The only difference between environment and universe is me.....
     The observer, doer, thinker, lover, enjoyer

            Richard Buckminster Fuller


 私なりに訳してみます。


   個々の人間にとって「環境」とは
   「自分以外のすべて」を意味する。
   同様に「宇宙」とは何を意味するか。
   「自分を含むすべて」である。
   環境と宇宙のただひとつの違い、それは「自分」。
   観察する、行為する、考える、愛する、愉しむ自分。
   (が含まれるか、含まれないか。)


 バックミンスター・フラー(1895-1983)は、アメリカの思想家、デザイナー、構造家、建築家、発明家、詩人。そうWikipediaにある。私はたしか、まだ20代の頃「美術手帖」でその存在を知った。フラーの特集が掲載されていた。

 まだ幼い頃、人はお金を稼がなければ生きてゆけないのだと周囲から知らされる以前の子ども時代に、自分はどんなことを考えていただろう。何を愉しんでいただろう。それを思い出すことにはとても価値がある。そんな内容の一文に出くわして驚いた。そんな時代が、確かに誰にとってもあったのだ。

 芸術は金銭とは何の関係も無いもの。自由に創作したその結果、副産物のように誰かの心の深いところにそっと響くものだと思う。だからレッスンではのびのびと描くこと、その一点をお伝えしたいといつも思う。私の余計なアドバイスで、その方の人生の独自な輝きを消すわけにはゆかない。自分自身に忠実に描くことほど、難しいことはないけれど、それはできない事じゃない。

 けっして勤勉な絵描きではないけれど、絵を描くことから、自分は多くを学んでいると思う。温暖化が進み「環境」という言葉が地球上を大きく行き交っている。その「環境」に「自分」は含まれているだろうか。絵を描くときと同じように、傍観者の立場からではけっして何事も解決しないということ。フラーの言葉に、あらためて教えられます。