9 Oct 2021



フラーの教え

 今日はオンラインの水彩レッスンで、この絵を描きました。生徒さんのAさんにデモンストレーションをご覧に入れた。グリーンのバリエーションについて、また下描きにとらわれずに描くことについて、描きながらお話しました。

 Aさんにお話しながら、自分も学ぶ。私は下描きが苦手で、ほぼすべての絵は書道のように一発描きで描いてきました。しかし下描きをすることで、もう少し複雑なことが可能になる。生徒さんたちがするのを見て初心に返り、ヨシ、私もやってみようと思ったのです。

 下描きは一度目のデッサン。その上に筆と水彩で描くのは二度目のデッサン。そのくらい気持ちを新たに描いてみたら、好奇心が失せずに面白く描けた。拡大すると、下描きの鉛筆と実際のペインティングが、合ってないことがわかると思います。

 とにかく、面白くなければ、絵なんか描く意味がない。新しい発見に満ちた冒険でなければ、絵を描くことはただの退屈な作業です。一瞬一瞬を愉しみ、一瞬一瞬あたらしくなる自分がいなければ。

 たとえば、幼いこどもはそれを難なく行ないます。私には甥と姪が合計3人ずついますが、どの子も小さな頃はとっても創造的。ここに遊びに来ては「絵の具する」と非常にしつこくせがむ(そのうち何か訊いても「べつに」とか言うくせに)。彼らは色鉛筆では満足できない。絵の具は、粘土細工と同じような「体感」の大きな画材だと思います。

 こどもが「絵の具する」のを見ていると、絵の具を溶くことからもう愉しんでる。いや、白い紙が目の前に置かれ、水入れとか筆が並んだ時点でワクワクの頂点。溶いた絵の具をじゅわっと紙の上に置いた途端、目の前の宇宙がガラッと変わる。その悦び、興奮が伝わってくる。




 亡くなったジャーナリストの立花隆さんが、だいぶ前に新潮社のウェブサイトで、バックミンスター・フラーから贈られた詩を紹介していた。座右の銘の持ち合わせはないけれど、この詩から、その代わり以上の意味を与えられ、机の前にいつも貼っている。


   Environment to each must be
     'All that is excepting me.'
     Universe in turn must be
     'All that is including me.'
     The only difference between environment and universe is me.....
     The observer, doer, thinker, lover, enjoyer

            Richard Buckminster Fuller


 私なりに訳してみます。


   個々の人間にとって「環境」とは
   「自分以外のすべて」を意味する。
   同様に「宇宙」とは何を意味するか。
   「自分を含むすべて」である。
   環境と宇宙のただひとつの違い、それは「自分」。
   観察する、行為する、考える、愛する、愉しむ自分。
   (が含まれるか、含まれないか。)


 バックミンスター・フラー(1895-1983)は、アメリカの思想家、デザイナー、構造家、建築家、発明家、詩人。そうWikipediaにある。私はたしか、まだ20代の頃「美術手帖」でその存在を知った。フラーの特集が掲載されていた。

 まだ幼い頃、人はお金を稼がなければ生きてゆけないのだと周囲から知らされる以前の子ども時代に、自分はどんなことを考えていただろう。何を愉しんでいただろう。それを思い出すことにはとても価値がある。そんな内容の一文に出くわして驚いた。そんな時代が、確かに誰にとってもあったのだ。

 芸術は金銭とは何の関係も無いもの。自由に創作したその結果、副産物のように誰かの心の深いところにそっと響くものだと思う。だからレッスンではのびのびと描くこと、その一点をお伝えしたいといつも思う。私の余計なアドバイスで、その方の人生の独自な輝きを消すわけにはゆかない。自分自身に忠実に描くことほど、難しいことはないけれど、それはできない事じゃない。

 けっして勤勉な絵描きではないけれど、絵を描くことから、自分は多くを学んでいると思う。温暖化が進み「環境」という言葉が地球上を大きく行き交っている。その「環境」に「自分」は含まれているだろうか。絵を描くときと同じように、傍観者の立場からではけっして何事も解決しないということ。フラーの言葉に、あらためて教えられます。