25 Aug 2020
20 Aug 2020
18 Aug 2020
オラファー・エリアソンの言葉
昨日の続きです。
私は言葉に支えられ、言葉に守られて生きている。ずっとそう思っている。もちろんほかのさまざまな外界、絵を描く自分にとっては特別に、景色やオブジェ、自然物、人工物、もちろん人の笑顔、表情、哀しみにさえ、とにかく目に映り触れられる、この世界のすべてに支えられている。
それでも、言葉は特別に重要だと思う。特に「詩」精神は、人が発明した、最も崇高な救いの一つだと思う。
若い日々に言葉の不思議を教えてくれたある方が、「詩人には家がない」と言ったのが忘れられない。「画家には家があるでしょう? 芸術家、音楽家、工芸家、作家、文筆家、みんな家がある。詩人には、でも、家(と言う字)がないでしょう?」
昨日のオラファー・エリアソンの言葉を、画面を止めながら書き写してみた。
「私たちはものごとの見方を知らないがゆえに、いろんなことが見えないと思うんです。でも見方を変えれば見えなかったものが見えてきます。」
「それは不可能なことを可能にすることに通じます。見方を変えれば、川は橋となるんです。世界をよりよく理解するために、見方を変える。知覚を変化させる。そういう意味です。」
「今まで見えなかった『時間』が、ほんの少しの水と波だけで見えるようになったんだから・・・。環境や気候に関してもそうです。見方を変える、知覚を変えることで、地球を今一度理解し直さなければならないと思います。」
表現の手法は問題ではないと、オラファーは言う。
「アートとは、ひとつの言語であり、形式です。より重要なのは、そのアート作品がなぜ作られて、なにを伝えようとしているのかです。伝えることによって、使う言語も変わってくるでしょう。」
「ただ私の場合、より、詩的な言語を使いたいと思っています。」
詩精神。
「美術館には美術をよく知る人だけでなく、あまり知らない小さなこどもやお年寄りにも来てほしい。初めて来た人にとっても、居心地のいいところにしたいんです。まるで私と一緒に、あなたが展覧会を作っているような気持ちになってほしい。」
「私は創作者ではないし、あなたは消費者ではない。私とあなたは、共同制作者なんです。」
人々が美術館に来られない今、アートが自宅にやってくるということや、自然を部屋の中に取り入れることが出来ると、オラファーは考えている。
「確かに今、私たちは物理的に離れています。でも社会的にはつながっていなければいけないと思うんです。その役割をアートは担うことが出来ると思います。なぜなら、他の手法では表現しづらいことでも、アートであれば表現することが出来るからです。」
「『アート』はただ鑑賞する対象ではなく、プラットフォームのような場所なんです。人々が集まり、それぞれ違う意見を言い合い、その意見を尊重するところ。そんな場所がアートなんです。」
14年前、自分の始める講座に名称を付けなくてはならなかったときに、「アート」と言う言葉を使うべきだと思ったのは、教室を限定されたスタイルに収めたくない思いがあったから。おかげで私のクラスには、初心者、経験者入り混じった、様々に探究心のある方々が集ってくれています。可能性が無限。コロナ禍で始めたリモートレッスンからも、それを強く感じていたところでした。HACもHICも、みんなのプラットフォームになってほしい。そして常にそうでありたい。
「アート単体では解決策にはなりません。でも物理的ではなく、社会的につながることのできるアートと言う場所で私たちが対話を交わすことで、今何が重要なのかを考えることが出来るのだと思います。」
リモートでつながったベルリンのスタジオ。アーティストの後ろに、ギターが一本立てかけてあったのが印象に残った。
詩人には家がない。光のように自在な存在。
光をありがとう、オラファー・エリアソン。
17 Aug 2020
残暑お見舞い
皆さま、いかがお過ごしでしょう。コロナに豪雨、長梅雨に酷暑。心はなるべく平穏にと努めています、とかカッコいいことではゼンゼンなく、出来る日には短い昼寝を。
「パワーナッピング」と言うそうですね。たとえ5分でも仮眠すると、そのあとの「パフォーマンス」が俄然違ってくるんだとか。確かに、脳内がすっきりします。
昨日もまた、暑くて辛い一日の始まりと思いきや、幸いにも違った。日曜美術館でオラファー・エリアソンの展覧会の様子を観ることができたから。この展覧会は始まる前からずっと愉しみにしていたのが、コロナで延期になり、再開してもまだ行けないでいる。9月下旬の最終日までに、都内へと出掛けられるだろうか?
この偉大な芸術家の作品を初めて体験したのは時を17年も遡り、2003年のロンドン、現代美術のミュージアム、テートモダンででした。会場に一歩足を踏み入れた途端、この景色。
ウェザー・プロジェクトと名付けられた、これは巨大なインスタレーションです。発電所だった建物を美術館にリノベーションしたテートモダンの、信じられないくらいどでかい空間に、これまたどでかい太陽を、オラファー・エリアソンは設えて見せた。今思い出しても、モダンアートから受ける最大級の刺激的体験でした。
歩道橋の向こうや天井に映る人影で、この空間の巨大さが伝わるでしょうか? あらゆる年代の人間が、思い思いの姿で、この人工の太陽を仰いでいた。
平和な気持ち、とも違う。畏れのようなもの、とも違う。それまで経験したことの無い、フラットな気持ちにさせられたのを思い出します。アインシュタインは「遠方では時計が遅くなる」ことをつきとめましたが、その実験の粒子の一つに自分がなったような。たとえて言えばそんな感じ。記憶を反芻すると、ある実験者がどこか遠くにいるのをかすかに感じるような、そんな気持ちもよみがえります。
その後、2005年には東京の原美術館で、「Olafur Eliasson 陰の光」という展覧会を体験。今回の展覧会にも出品されている虹の作品を観ることが出来た。(原美術館が今年の12月で閉館するというニュースは、本当に残念です。)
日曜美術館では、オラファー・エリアソン自身の言葉を多く聞けたのがうれしかった。
まず展覧会場の最初に飾られているという、1,5000年から20,000年前の氷河で描いた大きな水彩。氷が溶けるままに時が描いた不定形の抽象画に「規則性のある形をドローイングで加え、より確かな存在感を出すようにしました」。創作の際いつも漠然と思っていることを、私のつたない思考の一万倍馬力で仰ってくれた。
TV画面を通してだって、この作品を前にしたら、悠久の時を感じないわけに行かない。作家が「光が放たれるような特徴を持たせようとした」この作品は、観客に向けての「ちょっとしたグリーティング(ご挨拶)なんです」という言葉にも、しびれました。
私たちの東京クラスも、秋のグループ展に向けて、あるささやかなプロジェクトを進めています。このコロナの時代にあって自分たちに何ができるかを考えたとき、自然に浮かんだその企画への心優しい励ましにも思え、頭の中に大きな風力発電の羽根がゆっくりと回り始めた思いがするのです。
つづく