25 Aug 2020

 



目に見えるものと見えないもの

 年を取ると早起きになるとよく聞いていたけれど、確かにそうで、でも自動的に早起きになるというより私の場合、早起きをしたくてたまらない感じ。

 最近は4時半に目覚ましをセットしている。起きてすぐに東の空を見る。カリッと宵の明星が輝いている。ここ数日はその時間、外気がぐっと温度を下げた。

 お湯を沸かし、簡単な朝ごはんの支度をしながら、30分後にもう一度見ると、もう金星は消えている。太陽が昇ったからだ。小鳥たちも目を覚ます。

 私たちの星は、毎日毎日これを繰り返している。

 朝のまだ暗いうちの景色は、今までしてきた旅の朝と重なって、目覚めたばかりの五感を刺激する。旅に出ると、とくに移動の日は、早起きをしなくてはならない。見知らぬ街の朝ほど、ワクワクする景色はない。その期待と不安の思い出すべてが重なる。

 静かなホテルのフロント、空港までのタクシー、バス乗り場や駅までの道のり、人がまばらで、空間ばかりが目立つターミナル、刻々変わる空の色、その街その街の澄んだ空気の匂い。これから向かう場所への期待よりも、その一刻が尊く思われる。

 この写真は、去年の5月、HACとHICのメンバー有志と出掛けた南イングランド、ライの街の朝。海のある街。カモメの声がBGMの静かな朝でした。

 


 夜が明けて、世界が色にあふれるまで、しばらくボーっと窓の外を見ていた。



 太陽の圧倒的光でかき消されている、でもそこに確かに存在する満天の星たち。今日はその星のことを意識して、一日を過ごしてみよう。


20 Aug 2020



単なる気分転換と言う目的を超えて

 オンラインのレッスンを始めて、4か月目に入りました。今のところ、得るものが多く、毎回やりがいのある個人講座になっている。そういう手ごたえがある。

 もちろん、直接みんなで会っておしゃべりしながら進めるレッスンにとって代わるものではない。あの賑やかで自由で刺激いっぱいの集まりは特別なもので、フッカツの日が待たれる。・・・のだけれど、あれはあれ、これはこれ。今できる最善のことを試みていると、今まで見えていなかった発見がある。

 思えば、絵を描くこと自体がそういうことで、オンラインにチャレンジしたように、とにかく一筆置いてみることからしか始まりません。迷いながら、悩みながら思い切って始めてみると、知らない間に夢中になって進んでいる自分に気づく。もしそうなっていなかったなら、それは今やるべき事じゃない。頭を切り替えて別のことをすればいい。その意味で、この試み、なかなかいい感じに描き始めることが出来ていると思うんです。

 今までとまず違うのは、個人との対話です。みんなで集まる時には、どうしたってある妥協点が必要で、個人の思いや希望に心を砕くには、時間が短すぎる。

 一方、オンラインの個人レッスンだと、とくに水彩は、ディスカッションしながら、それぞれの好みや大切にしていることがよく見えてくるので、アドバイスしやすい。模写を続けたい方、育てた植物や花を描きたい方、大切なコレクションを絵にされてゆく方、他のお稽古事とコラボレーションされる方、会話を通して発見する方向は様々です。

 絵や作品は、好きなように描くのが一番。ずっとそう思って試行錯誤してきました。皆さんにも「こうであらねばならない」を取っ払い、のびのびとした創作を愉しんでほしい。好きなように描く。その難しさを乗り越えて。

 先日、イギリスのガーデンデザイナー、Dan Pearson と言う方の言葉に触れて、忘れないようにメモをした。


    単なる気分転換と言う目的を超えて
    心身の健康を回復させる。


 庭づくりを趣味として愉しまれる方に発せられたメッセージですが、絵を描く人にも、全く同じことが言えると思います。

 子供の頃に家に生き物やペットがいることは、よいことだそうですね。自分の思うようにゆかないことがある。そのことを学ぶチャンスなのだそうです。

 思うようにゆかないから面白い。困難なことは、人に何かを教えてくれる。人は困難さを探している。イラストレーターになりたての頃、あることがきっかけでそのことに気付きました。この話は、またいつか。 




18 Aug 2020

 


オラファー・エリアソンの言葉

 昨日の続きです。

 私は言葉に支えられ、言葉に守られて生きている。ずっとそう思っている。もちろんほかのさまざまな外界、絵を描く自分にとっては特別に、景色やオブジェ、自然物、人工物、もちろん人の笑顔、表情、哀しみにさえ、とにかく目に映り触れられる、この世界のすべてに支えられている。

 それでも、言葉は特別に重要だと思う。特に「詩」精神は、人が発明した、最も崇高な救いの一つだと思う。

 若い日々に言葉の不思議を教えてくれたある方が、「詩人には家がない」と言ったのが忘れられない。「画家には家があるでしょう? 芸術家、音楽家、工芸家、作家、文筆家、みんな家がある。詩人には、でも、家(と言う字)がないでしょう?」 

 昨日のオラファー・エリアソンの言葉を、画面を止めながら書き写してみた。

 「私たちはものごとの見方を知らないがゆえに、いろんなことが見えないと思うんです。でも見方を変えれば見えなかったものが見えてきます。」

 「それは不可能なことを可能にすることに通じます。見方を変えれば、川は橋となるんです。世界をよりよく理解するために、見方を変える。知覚を変化させる。そういう意味です。」

 「今まで見えなかった『時間』が、ほんの少しの水と波だけで見えるようになったんだから・・・。環境や気候に関してもそうです。見方を変える、知覚を変えることで、地球を今一度理解し直さなければならないと思います。」

 表現の手法は問題ではないと、オラファーは言う。

 「アートとは、ひとつの言語であり、形式です。より重要なのは、そのアート作品がなぜ作られて、なにを伝えようとしているのかです。伝えることによって、使う言語も変わってくるでしょう。」

 「ただ私の場合、より、詩的な言語を使いたいと思っています。」

 詩精神。

 「美術館には美術をよく知る人だけでなく、あまり知らない小さなこどもやお年寄りにも来てほしい。初めて来た人にとっても、居心地のいいところにしたいんです。まるで私と一緒に、あなたが展覧会を作っているような気持ちになってほしい。」

 「私は創作者ではないし、あなたは消費者ではない。私とあなたは、共同制作者なんです。」

 人々が美術館に来られない今、アートが自宅にやってくるということや、自然を部屋の中に取り入れることが出来ると、オラファーは考えている。

 「確かに今、私たちは物理的に離れています。でも社会的にはつながっていなければいけないと思うんです。その役割をアートは担うことが出来ると思います。なぜなら、他の手法では表現しづらいことでも、アートであれば表現することが出来るからです。」

 「『アート』はただ鑑賞する対象ではなく、プラットフォームのような場所なんです。人々が集まり、それぞれ違う意見を言い合い、その意見を尊重するところ。そんな場所がアートなんです。」

 14年前、自分の始める講座に名称を付けなくてはならなかったときに、「アート」と言う言葉を使うべきだと思ったのは、教室を限定されたスタイルに収めたくない思いがあったから。おかげで私のクラスには、初心者、経験者入り混じった、様々に探究心のある方々が集ってくれています。可能性が無限。コロナ禍で始めたリモートレッスンからも、それを強く感じていたところでした。HACもHICも、みんなのプラットフォームになってほしい。そして常にそうでありたい。

 「アート単体では解決策にはなりません。でも物理的ではなく、社会的につながることのできるアートと言う場所で私たちが対話を交わすことで、今何が重要なのかを考えることが出来るのだと思います。」

 リモートでつながったベルリンのスタジオ。アーティストの後ろに、ギターが一本立てかけてあったのが印象に残った。

 詩人には家がない。光のように自在な存在。

 光をありがとう、オラファー・エリアソン。



17 Aug 2020



残暑お見舞い

 皆さま、いかがお過ごしでしょう。コロナに豪雨、長梅雨に酷暑。心はなるべく平穏にと努めています、とかカッコいいことではゼンゼンなく、出来る日には短い昼寝を。

 「パワーナッピング」と言うそうですね。たとえ5分でも仮眠すると、そのあとの「パフォーマンス」が俄然違ってくるんだとか。確かに、脳内がすっきりします。

 昨日もまた、暑くて辛い一日の始まりと思いきや、幸いにも違った。日曜美術館でオラファー・エリアソンの展覧会の様子を観ることができたから。この展覧会は始まる前からずっと愉しみにしていたのが、コロナで延期になり、再開してもまだ行けないでいる。9月下旬の最終日までに、都内へと出掛けられるだろうか?

 この偉大な芸術家の作品を初めて体験したのは時を17年も遡り、2003年のロンドン、現代美術のミュージアム、テートモダンででした。会場に一歩足を踏み入れた途端、この景色。



 ウェザー・プロジェクトと名付けられた、これは巨大なインスタレーションです。発電所だった建物を美術館にリノベーションしたテートモダンの、信じられないくらいどでかい空間に、これまたどでかい太陽を、オラファー・エリアソンは設えて見せた。今思い出しても、モダンアートから受ける最大級の刺激的体験でした。

 歩道橋の向こうや天井に映る人影で、この空間の巨大さが伝わるでしょうか? あらゆる年代の人間が、思い思いの姿で、この人工の太陽を仰いでいた。

 平和な気持ち、とも違う。畏れのようなもの、とも違う。それまで経験したことの無い、フラットな気持ちにさせられたのを思い出します。アインシュタインは「遠方では時計が遅くなる」ことをつきとめましたが、その実験の粒子の一つに自分がなったような。たとえて言えばそんな感じ。記憶を反芻すると、ある実験者がどこか遠くにいるのをかすかに感じるような、そんな気持ちもよみがえります。

 その後、2005年には東京の原美術館で、「Olafur Eliasson 陰の光」という展覧会を体験。今回の展覧会にも出品されている虹の作品を観ることが出来た。(原美術館が今年の12月で閉館するというニュースは、本当に残念です。)

 日曜美術館では、オラファー・エリアソン自身の言葉を多く聞けたのがうれしかった。

 まず展覧会場の最初に飾られているという、1,5000年から20,000年前の氷河で描いた大きな水彩。氷が溶けるままに時が描いた不定形の抽象画に「規則性のある形をドローイングで加え、より確かな存在感を出すようにしました」。創作の際いつも漠然と思っていることを、私のつたない思考の一万倍馬力で仰ってくれた。

 TV画面を通してだって、この作品を前にしたら、悠久の時を感じないわけに行かない。作家が「光が放たれるような特徴を持たせようとした」この作品は、観客に向けての「ちょっとしたグリーティング(ご挨拶)なんです」という言葉にも、しびれました。

 私たちの東京クラスも、秋のグループ展に向けて、あるささやかなプロジェクトを進めています。このコロナの時代にあって自分たちに何ができるかを考えたとき、自然に浮かんだその企画への心優しい励ましにも思え、頭の中に大きな風力発電の羽根がゆっくりと回り始めた思いがするのです。

つづく