28 Apr 2016


 


木の芽味噌

 最近クセになっているのが、木の芽味噌作りです。なにしろ、木の芽が売るほどある(?)ので、アゲハチョウの離乳食になる前に、「私だって味わいたいワ」と、気合が入ります。

 火にかけて練り上げるのを前に作ったことがあったけど、これはただすり上げるだけ。手軽なのに、美味しい。ちょっと日が経った方が、まろやかになりますね。

 白みそ100g、きび砂糖大さじ2半、酒大さじ2、みりん大さじ1を混ぜ合わせておく。木の芽20枚ほどは軸からちぎり、すり鉢ですりおろす。その時、先日来使っているフードプロセッサーのお世話になります。まずそれで葉をみじん切りにすると、すりつぶすのが楽なんです。

 そのすり鉢に、調味料を混ぜたお味噌を少しずつ入れ、すり上げて、木の芽とお味噌を一体化させてゆきます。

 お味噌は、農協の直販所(沼津市立病院前のJAなんすん その名も「KAU~ら」)でいつも求める、麹がたっぷり入った手作りのお味噌。今回買ったのは、麹のつぶつぶが目立つので、ある程度すったらまたフードプロセッサーに入れ、滑らかになるまでガーッ、で出来上がりです。

 冷蔵庫で2週間は持ちます。今が旬の竹の子族をだし汁でうす味に煮て、これで和えたらもう絶品ですし、湯豆腐にも美味しい。ポテトの茹でたのにもいいし、焼きおにぎりにも。いろいろ冒険してみたいです。

 今日は従姉妹のヤッちゃんにひと瓶プレゼント。先週はRさんとKさん夫妻にも。他にも許してくれそうな方がいたら、押し付けたいな、木の芽味噌、です。



 フードプロセッサーは、ディップづくりにも活躍しています。これはツナのディップ。「くらしのきほん」で、ケイパーを入れると美味しいことを知りました。ゆで卵ではなく、手抜きでマヨネーズ仕上げですが、それでも美味しいです。

 ツナ缶は水分(油分)を充分切ってから使います。ケイパー、にんにくのすりおろし少し、玉葱、マヨネーズ、あればパセリ、その全部をフードプロセッサーにかけて、必要なら塩胡椒。それだけです。

 私の使っているのは、「レコルト カプセルカッター」という少量の調理に便利な小型の機種。フードプロセッサーと言うものに対し、勤勉な日本人は、なんだかズルをしているような後ろめたさを感じて、なかなか踏み出せない傾向があると思うのですが(私もそうでした)、いざ使ったら、こんな便利なものは無いと思います。

 フムスなども、今まではミキサーで作っていたんで始末が面倒でした。でも、カプセルカッターはマグカップを洗うのと同じくらい楽ちん。もっと早く手を出すんでした。

23 Apr 2016



イベントのお知らせ

 ジャパン・ハーブ・ソサエティー(JHS)のオープンゼミ、「専門家を訪ねて」というシリーズのイベントでワークショップをさせていただくことになりました。JHSの中の「C³」(シー・キューブ)ハーブ・クリエイト研究会から、光栄なご依頼です。そのためのサンプル作品を作るため、今朝は小さな庭からローズマリー、タイム、アイビー、バラの葉、シダを摘んで押し葉にしました。

 開催は少し先になりますが、10月26日。会場はいつもレッスンをしている目白の明日館です。JHSの会員の方以外でもご参加いただけます。お愉しみに!

 その前に、7月には、銀座ACギャラリー10周年記念のグループ展に参加します。ジュエリーと箱の展覧会。私は箱を作ります。現在頭の中で、あれこれ考え中ですが、ハーブのサンプル作品の後すぐに、そちらにも取り掛かります。

 お気づきの方もいらっしゃると思います。新しい情報から順次こちらのブログに引っ越しをしようと思っており、先ほど、'event' のページを追加しました。上の方にメニューバーをご覧いただけますか? 

 上記の催しについても追って記して参りますが、第一弾は HIRO'S ART CLASS のイベントから。なんと、我らが青木和子さんとのパブリックトークを、6月5日に開催することになりました!

 先日、新刊の『青木和子のステッチライフ』を上梓されたばかりの青木さんをゲストに、日々のお暮らしと制作について、いろいろなお話を伺いたいと思っています。後半はティータイム。リラックスしたフリートークの時間を設けます。この貴重な機会に、よろしければぜひご参加ください。

 お席が限られていますので、お早目のお申込みをお待ちしております。

 皆さまのおかげで、10年はあっという間でした。その記念にこんなご褒美が待っていたなんて! 快くお受けくださった青木さんに、たいへん感謝しています。そして今からとても愉しみです♪




新しい仲間たち

 はじめはずっと前に植えたヒヤシンスが、ひょろひょろと出てきたのかと思った。そしたら思わぬプレゼント! ブルーベルだった。ハイブリッド種かもしれない。どこから来たのだろう。この金柑の木の下に、どうやって引越して来たのだろう。

 ブルーベルはこの時期のイギリスの風物と言っていい花で、森の中の木々の根元に浮き上がるように群生して咲く。ウィンブルドンに暮らしていた頃、私は森ではなく、近くのパットニー・ヴェイルという墓地で見た。小さな群生でも胸のドキドキする景色だった。緑の中に広げられた紫の絨毯は、魔法の国を思わせる。

 来年はもう少し増えて、翌年ももう少し増えて、小さな魔法の座布団くらいになったらいいなと思う。


 これは紫蘭のつぼみ。お隣のSさんから一昨年一株もらった。根付いた様子なのに、去年は咲かなかった。今年はご覧の通りです。うれしい。

 この花を知ったのは、従姉妹にお茶を習っていた頃で、お稽古自体にはすぐ挫折したけれど、茶花の様子の美しいことには、毎回感動でした。そのうちのひとつが紫蘭だった。これも金柑の木の下に。


 そしてこれもまた金柑の木の下。可憐なスズラン。やはり一昨年、Mさんに鉢植えを頂いたのを根付かせた。紫蘭と同じく、去年はお休みだったので諦めかけていたのですが、今年は葉もよく伸び、コロンコロンと花が付き始めた。しかも株が増えて5株になっている。ご近所に、一面スズランのお庭を持つお宅があります。勝手に増えてそうなったという。これまた将来が愉しみです。

 金柑の木の下が、新人のたまり場となっていますが、どうしよう。どれも上手く増やせるように、レイアウトを考えないとです。行き当たりばったりの私の小さな庭にも、花咲く季節がやってきました。

15 Apr 2016



大丈夫じゃなくても大丈夫

 週末の東京クラスと来週の沼津クラスの準備。上はスタンプで作ったポストカードのサンプルです。さっき資料をコピーして、明日水彩のサンプルを制作したら完了。Hiro's Art Class では、時々超ビッグなアーティストの作品を資料に紹介することがある。ピカソなどにも、平気で登場願う。

 4月のセンセイは、アンディ・ウォホールとラウル・デュフィにお願いしました。ちょっと異色の組み合わせ。でもふたりともファッションに関わった人、という共通点がありますし、そういえば私もスタートはファッションだったのでした。そしてふたりの画家はイラストレーターでもあった。この講師は、勝手に親近感を抱いているらしい。

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 二日目の晩で、被災された方々の疲れが出てくる頃かと思う。

 昔、ある方から「大丈夫じゃなくても大丈夫」ということばを聞いたのを、この間、ちょっと大丈夫じゃないことが続いたときに思い出した。聞いたときはまだ若くてピンと来なかった。今はその方が伝えたかったことが、少しはわかる。

 たいへんな災難の中にいるひとびと。あそこにいるのは自分かもしれないと思いながら、このことばを心に唱えている。 

 

8 Apr 2016


時を経て

 修善寺の旭滝のことは、以前友人に連れて行ってもらって知りました。前のブログに去年の初夏の頃だったかそのことを書いたので、覚えている方もいるかもしれません。

 崖がまるで石を積み上げたような不思議な地形になっている。六角柱を寝かせて組んで、断面をこっちに見せているような崖。周囲の自然を大きく壊すことなく、滝を見上げるあたりがさっぱりと整えられていて、すぐ近くまで車で入れるわりに人もいない。マイナスイオンがニュートリノになって身体を通過してくれそうにたっぷり感じられ、パワースポットとはこういう場所のことかしらと思った。


 






 先日父の所用で修善寺に行くことになった時、再び寄りたいと調べたら、なんと、訪問先のお寺のすぐ隣でびっくりしました。滝もお寺も古い。だからただ偶然に隣・・・と言う訳がない。

 この滝のある場所には、その昔、伊豆でただ一つの虚無僧のお寺(普化宗寺院、瀧源寺)が、明治初年に廃宗になるまであったそうで、そのお寺の本尊であった平安期の木彫仏二体が、今は金龍院に安置されている。

 金龍院のご住職が父の友人で、こどもの頃私も連れられて一度来たことがあったけれど、その頃はただ「お寺」というだけで、何も見えていなかった。それから半世紀近くが経ち、目に映るものすべてが興味深い。




 金龍院は、北条早雲の三男、北条幻庵が開いた400年もの歴史を持つお寺、ということも今回初めて知った。境内も本堂も、裏の墓地に咲く満開の桜や珍しい菊咲きのヒメコブシ、そこから東に望むパノラマのような山の斜面は今まさに「山笑う」で、なにもかもが沁みました。もちろん、平安仏、十一面観音菩薩立像と不動明王坐像も拝ませて頂いた。

 去年の友人の案内に感謝。普段着の気さくなご住職のお話に感謝。長い時を経てこんな時間を持てたことに感謝。そして目下デジカメにはまっております、我が父に感謝です。


5 Apr 2016



思想の時間

 日曜日、雨の中、またまたクレマチスの丘に出掛けて行った。

 丘には美術館が3つと文学館がひとつあり、今まで入ったことの無い写真の美術館に、本橋成一さんの写真展「在り処」を観るために、またチェルノブイリの事故で被爆した村と人々を録ったドキュメンタリー作品、「ナージャの村」と「アレクセイと泉」を観るために。

 この日はトークショーもあり、本橋さんと作家の平松洋子さんとの対談も聴くことが出来た。

 自分の写真が過去のものから現在まで展示されたのを観ていると、「自分の居心地のいいところを歩いてきたんだな」と思うと、本橋さん。「出会った人によって自分の思いが変わっていくのですから、それはたのしいことですよね。」とも。

 炭鉱、大衆芸能、サーカス、屠場、駅・・・。「社会の基底にある人間の営みの豊かさ」を写しだしてきたとパンフレットにある。私は昭和30年代生まれで、写された炭鉱や屠場や沖縄以外は、子供だった自分になじみのある景色ばかりだ。サーカスや田舎芝居、ちんどん屋さん、紙芝居屋さん、上野駅。そうだ、駅は今よりずっと泥臭い場所だった。

 デジタルのカメラを使わない本橋さんは、暗室に居る時間を「思想の時間」と呼んで、大事にしていると仰っていた。デジカメは、確かにすごい写真を撮る。でもどんなにすごいかと思う「時間」が欠如している。ただ、スゴイね、スゴイね、で終わってしまうような気がすると。

 最近始めたインスタグラムの画面を指でスイスイ流すとき、ふっと感じる虚しさを言い当てられたような気がして、ズキッと来た。
 
 IZU PHOTO MUSEUM で観たモノクロームの写真の世界と、ホールで観たカラーの映像の世界。両方は手をつなぐように通じている。通じているけれど、映像作品には別の暖かさと穏やかさがあって、静かな気配に満ちて、だからこそと思うのですが、胸に残るものがとてつもなく大きかった。途中うとうと眠ってしまった・・・にもかかわらず、分かったようなことを言うのをためらわない自分が恥ずかしいけれど、特に「アレクセイと泉」は今も映像が浮かぶ。もう一度、いや何回でも、観てみたいなと思う。坂本龍一さんの音楽も好かったです。
 
ホームベーカリーさえあれば、捏ねる手間が省ける。よし、手に入れようとほとんど決めていた。適当な機種も調べた。それでもどうしても一歩が進まなかった。その訳が分かった。「思想の時間」が私にも必要なんだ。昨日パンを捏ねながら、そんなことを思想している自分に気付いた。