24 Sept 2021

 



きっちり足に合った靴

 新しい靴を買いました。靴を履いて出かける機会もめっきり減ったけれど、スペインのメーカー、カンペールの靴が好きで、これでかれこれ4足目。

 私の足はなにしろ問題がいっぱいなのです。まずひどい外反母趾。これは若い頃からひとりでタッタッタ・・・、速足で歩く癖が災いしたのだと思う。ヒールの靴は、ほとんど履いていませんでしたから。そして甲高幅広。しかも年齢と共に足の裏が妙に敏感になり、近年厚底がありがたいことに気付きました。

 若い頃、イギリスで靴を初めて買った時(イタリア製とスペイン製だった)、履きやすさに感動だった。やっぱりヨーロッパは靴の歴史が違うんだと思った。冬用のコートを買った時(これは英国製)もそうだった。厚手でも、腕をぐるぐる回せるんでびっくりした。

 ファッション性が高いのに不思議なネーミング。カンペールとは、スペイン語で「農夫」とか「田舎の」とか「素朴な」という意味だそうです。

 今回求めたのは、幼い少女の頃履いていたような、甲の上にストラップがあるタイプ。がしかし、かなりヘヴィーデューティー。靴底↓をご覧ください。スニーカーなのです。




 そのごつさに、ちょっとひるんだ。でも意外にも鏡に映すと暑苦しさがない。これこそデザインの技というものですね。いつものように足入れもばっちりだった。スペインでは、私のこの不格好な足みたいなのが定番なのだろうか? そんなわけない。でもなぜかぴったりなんだ。我らが近所の田舎道も、これで恐れる必要はない。どんどん歩くぞ!

 靴を求める時に、必ず思い出す本がある。作家の須賀敦子さんの本。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」。この印象深い書き出しで始まる『ユルスナールの靴』。

 書き出しで心つかまれたわりに、私には難解な内容で、須賀さんが淡々と紡がれている言葉に惹きつけられるものの、テーマであるフランスの作家、マルグリット・ユルスナールという女性の輪郭さえつかめず、なにか煙のような雲のようなぼんやりとした塊としてしか、心にイメージが結ばれなかったのを覚えている。私の経験や知識が少なすぎるせいだと思う。 




 しかしその煙は、薫り高く、気高く、胸にずっと残る煙。自分の小さな力では計り知れない何かこそ、自分を育ててくれる大切な教えなのだという、いつもの予感があった。

 幼い日に与えられた本に、まだやっとひらがなが読めるようになった自分には不釣り合いな、小さな文字の分厚い文学全集の一冊があった。読んでも読んでも意味が分からない。でもその表紙にはひどく惹かれた。大きな森の大樹の根元に小さな鹿が一頭佇んでいる。ヨーロッパのおそらくは古い絵画。ヴィタ・サックヴィル・ウエストの生家で、ヴァージニア・ウルフの小説『オーランドー』の舞台となった英国ケント州のノール城を訪ねた時、それと似た景色を観た。ああ、あの本が私をここへ導いたのだなとわかった。そんな、理解を超えた何かというものが確かにあることを、私は信じます。

 横道にそれました。

 とにかく、ユルスナール本人の本を読んでみたくなった。きっと難しいだろう。でも分からなくたっていい。須賀さんがここまで思い入れを持つ作家なのだもの。つまらないわけがない。この『東方綺譚』には、ウルフや、それからもう一人私の好きな難解作家、ボルヘスにも通じる、奇妙、不思議、悪夢のような物語が静かに繰り広げられる。

 久しぶりに本を開くと、たとえば、こんな言葉に私は傍線を引いている。


 「人種や民族のかぎりない多様性が全体の神秘的な統一を乱していない」


 再び読んでみよう。またきっと発見があるはず。

 須賀さんは『ユルスナールの靴』の最後の方で、ユルスナールが実際に履いていた靴について書かれている。ピンタレストで、その靴を発見した。須賀さんが見たのと同じ写真ではない。シチェーションが違う。でもこれに違いないとすぐわかった。ああ、いいなぁと、私も思った。甲にストラップのある、軽くてやわらかくて履きやすそうな、美しい白い靴だった。

17 Sept 2021

 



急に海が見たくなって

 このコロナ禍の疲れは、私のようにお家大好き、非社交的な者にとっても、じわじわとボディブロウのように効いてきたように思う。

 幸いにして、多くの生徒さんのおかげでオンラインのレッスンは順調で、毎日のようにどなたかと顔を合わせては、愉快な会話と学びに恵まれている。生徒さんたちも、このレッスンを日々の励みに思ってくださり、お互いによいエネルギーの交換が出来ている。本当に、心から感謝しています。

 子どもの頃から楽観と悲観が同居する。そんな自分が今この状況をどう見ているかと言うと、まだ何年も(もしかしたら何十年も)Covid は続くんだろう、いつ終わるかは誰にもわからないだろう。

 加えて、気象の変動もある。それこそ人間と生きものにとっての時間との闘い。時間・・・。親の介護という直近の課題も早10年生・・・。

 課題まみれの毎日を、どうやって乗り越え、またそこから自分は何を得、学んでゆくんだろう。自分の姿勢。それこそが大きな課題だと気づく。

 だからなんとか工夫して、生き方や考え方を変えてゆかねばならないだろう。もう元の世界には戻らないのだから。変えてゆけば急には無理でも、少しずつなんとかなってゆくかもしれない、そんな空中ブランコみたいな宙ぶらりんの信念ではあっても、希望はけっして捨ててはいけない。なぜなら希望は「にもかかわらず」持つものだからです。




 幸いここには、海があり、山がある。しばらく海には行っていなかった。そうだ、ちょっと行って見ようかなと思いついたのは、よりによって小雨が降る暗い日のことだった。

 目の前の鈍色の巨大プール。期待と違って、ちょっと怖い。ここに落ちたらどうなるんだろう。疲れているときには、何事も悪いほうへと考えが向かう。

 それでも、おおきな自然とひとり対面することは、自分の小ささを思い出させてくれた。お薬のように、その後の気持ちを楽に、また積極的にしてくれた。

 波の音に刺激されたのか、聴力が変わった。翌日、朝の散歩で虫の声に耳傾ける自分がいる。秋の野の花の色彩にもハッとする。何かが変わったように思う。

 そうだ、昔からそうだったじゃないか。今ここにない物よりも、あるものに目を向け、「あるもの」で「ないもの」を作るのが自分の仕事だ。自分が持っているものを、すべて生かし切っているだろうか? まだ生かしていないものがあったら、それが古い記憶であれ、身辺の自然であれ、集めたヴィンテージやがらくたであれ、まだ試みていなかった画材であれ、新しいインターネットの機能であれ、生かし切らないと、と思った。鈍色の海を見て。




3 Sept 2021

 


やさしい猫

 スリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんが名古屋出入国在留管理局で亡くなった。一連の痛ましくショッキングな報道に接するにつけ、遡って昨年春から一年間、読売新聞に中島京子さんが連載された『やさしい猫』が、いかに重要な小説であるかに、一層深く重く感じ入る。

 「今度の小説は難民をテーマに・・・」と伺ったのは、一昨年の秋だったと思う。難民と聞いた時、シリアなど中東の人々、または国を追われたロヒンギャの人たちについて書かれるのかなと、とっさに思った。しかし待ちに待った連載が始まると、それは日本国内に、私たちの隣人として暮らす難民のことだった。

 京子さんのことだから、以前からずっと構想を暖めておられたと思うし、執筆に際しては労を惜しまない丁寧な取材をし、膨大な資料の山と静かに格闘されたことと思う。

 しかしながらこの小説に、社会問題に立ち向かう堅苦しさはまったくない。タイトルからしてまさに「やさしい」し。

 誰もが日々の生活のなかで、目を凝らしその気にさえなれば見えるもの。視界の隅からぐぐっとその景色をセンターに持って来ると、その重いテーマが、私たち一人一人の個人的な問題であることに気付かされる。私たち一人一人が、他者をどのように見ているのか、感じているのか。

 今開催中のパラリンピック。TVをじっと観る時間はなかなか無い。でも、たとえ断片的ではあっても、自分の小ささを思い知らされる驚きと感動の連続。画面の向こうで繰り広げられているのは確かに競争なのだけれど、メダルの色や順位に関係なく、お互いを讃え合っている選手たち。オリンピック、とくに若い選手が活躍したスケートボードにも、同じことを感じた。国の威信をかけて、はもはや昔。オリンピック開催には複雑な思いだったが、以前より「個人」が際立つ世界が目の前に繰り広げられて、大いに学ぶ機会になっている。

 コロナに収束はあっても終息はないと、どこかで読んだ。その収束さえ、どこにいつあるのか、誰にもわからない。気候変動が加速しているのは言わずもがな。人の知恵で、そのスピードを抑え込まないと。自分に出来ることは何か。アフガニスタン。なぜいつまでも、人が人を殺さなくてはならないのか。

 私たち一人一人が、他者をどのように見ているのか、感じているのか。日常生活を送りながら、誰もが仕事や子育てや介護で慌ただしい毎日を送りながら、出来ることって何だろう。

 京子さんの小説は、いつだって弱い者の味方。だから私は、京子さんの描く物語が大好きなんだ。その自然な眼差しで、難民が抱える重い問題を身辺の問題に引き寄せて、私たちが自然に心を開けるように、この小説は存在する。 

 ぜひ今、手にとって読んで欲しい一冊です。

 

『やさしい猫』中島京子 著 / 中央公論新社