急に海が見たくなって
このコロナ禍の疲れは、私のようにお家大好き、非社交的な者にとっても、じわじわとボディブロウのように効いてきたように思う。
幸いにして、多くの生徒さんのおかげでオンラインのレッスンは順調で、毎日のようにどなたかと顔を合わせては、愉快な会話と学びに恵まれている。生徒さんたちも、このレッスンを日々の励みに思ってくださり、お互いによいエネルギーの交換が出来ている。本当に、心から感謝しています。
子どもの頃から楽観と悲観が同居する。そんな自分が今この状況をどう見ているかと言うと、まだ何年も(もしかしたら何十年も)Covid は続くんだろう、いつ終わるかは誰にもわからないだろう。
加えて、気象の変動もある。それこそ人間と生きものにとっての時間との闘い。時間・・・。親の介護という直近の課題も早10年生・・・。
課題まみれの毎日を、どうやって乗り越え、またそこから自分は何を得、学んでゆくんだろう。自分の姿勢。それこそが大きな課題だと気づく。
だからなんとか工夫して、生き方や考え方を変えてゆかねばならないだろう。もう元の世界には戻らないのだから。変えてゆけば急には無理でも、少しずつなんとかなってゆくかもしれない、そんな空中ブランコみたいな宙ぶらりんの信念ではあっても、希望はけっして捨ててはいけない。なぜなら希望は「にもかかわらず」持つものだからです。
幸いここには、海があり、山がある。しばらく海には行っていなかった。そうだ、ちょっと行って見ようかなと思いついたのは、よりによって小雨が降る暗い日のことだった。
目の前の鈍色の巨大プール。期待と違って、ちょっと怖い。ここに落ちたらどうなるんだろう。疲れているときには、何事も悪いほうへと考えが向かう。
それでも、おおきな自然とひとり対面することは、自分の小ささを思い出させてくれた。お薬のように、その後の気持ちを楽に、また積極的にしてくれた。
波の音に刺激されたのか、聴力が変わった。翌日、朝の散歩で虫の声に耳傾ける自分がいる。秋の野の花の色彩にもハッとする。何かが変わったように思う。
そうだ、昔からそうだったじゃないか。今ここにない物よりも、あるものに目を向け、「あるもの」で「ないもの」を作るのが自分の仕事だ。自分が持っているものを、すべて生かし切っているだろうか? まだ生かしていないものがあったら、それが古い記憶であれ、身辺の自然であれ、集めたヴィンテージやがらくたであれ、まだ試みていなかった画材であれ、新しいインターネットの機能であれ、生かし切らないと、と思った。鈍色の海を見て。