3 Sept 2018




言葉の混ざり糸

 ある方にご依頼を頂き、小さな贈り物のための絵を描きました。どんな絵にしようか。おめでたい場への贈り物ですから、やっぱり花。一束の花を描いた。

 小さな絵にも時間をかけ、少しずつ手を加えてゆく。その過程が難しくも面白い。額はどれにしよう。額にも小さな細工をしよう。そんな具合に絵が歩いてゆく。一歩。また一歩。

 その間にも、様々な日常が過ぎてゆく。

 読書はバージニア・ウルフに、相変わらずはまりっぱなし。「春樹さんはなぜ自分の考えていることがわかるのだろう」。村上春樹さんの読者の多くが、そう思うのだと聞いたことがある。私も、バージニア・ウルフは、なぜ私の考えていることがわかるのだろうと思う。

 でもそれを正面切って言うのは、作家に対しちょっとずうずうしいような。私はそれを、自ら掘り起こしてはいないし、考えてもいなかったのだもの。バージニア・ウルフという作家が、絶え間なく創作への衝動に突き動かされて、突き動かされて、やっとのことでみつけた水脈。それが私や多くの読者の抱えているある「喪失感」を潤す、ということなのかもしれない。(所有しているものについてはなかなか共感できないが、喪失したものについてなら人は共感ができるのだと、どこかで読んで妙に納得したばかり。)

 デザインもまた表現。たしか三宅一生さんも言っていた。デザインは、それを観た人が、まるで既視感のように「あ、これを私は知っている」と思うことで成功する・・・というようなことを。それを見た瞬間、初めて目にするにもかかわらず、瞬時に気持ちに馴染む何かを、優れたデザイナーは今日も世界中の街のどこかで、惜しげなく大衆の前に差し出している。

 最近、アメリカの画家、ヘレン・フランケンソーラーの言葉に感動しました。

 「本当に素晴らしい絵とは、まるで一瞬のうちに起こったように見えるものです。もしある絵が、労力と過剰な仕事によって生まれたかのように見え、あなたが作品から、『そうか、これをああして、そうしてから、ああしたのだな』と読み解くようなものならば、それは私にとって美しいアートではあり得ない」

 中森明夫さんが、一度だけさくらももこさんに会った時に、姪にサインをお願いした。そのとき、鉛筆で下書きをしてから、まる子の顔を描く様子、そしてあとから鉛筆の線を丁寧に消しゴムで消すさくらさんの様子に驚いたという。さくらさんは、そうしないと描けないのだと仰ったそうです。

 画家が絵をささっと描けると思うのは、間違い。でも、あたかも迷いなくササッと描いたもののように観てもらえたとしたら、フランケンソーラーの言葉のように、その絵はある程度上手くいったと思っていいのかもしれません。




 亡くなってから、毎日アレサ・フランクリンを聴いて、パワーをもらっています。パンチの効いた 'Think' という曲がある。ビル・クリントンはアレサへの弔辞の中で、自らのスマホを取り出し、この曲を会場の参列者に贈った。こういう場面を見ると、憂いの多い今のアメリカに、一筋の光を見る思いがする。

 私も ’Feel' と 'Think' の間を行ったり来たりしながら、混ざり糸でセーターを編むような気持ちで、今日も仕事ができたらいいなと思う。