熊谷守一さんの絵
やっぱり書かないわけにはいかない。
先日の東京のレッスンの後、もうこの日しか行ける日がないという午後に、用事を済ませ、やっと竹橋の国立近代美術館に行って来れた。もっともっとじっくり観たいし、できることならもう一度行きたいくらいだが、それはいつか、岐阜にある美術館を訪ねる日を夢見て待とう。
たった2時間ではあったけれど、巨木の幹に耳を押し当てたときのように、様々な思いが沸き起こり、その根元にあった木の葉一枚、小石一個をしっかり握りしめて帰ってきた。こんな展覧会を観られたことに、ただ感謝です。
夢中で絵を観ながら順路をめぐっていて、ふっと我に返った。美術館の広い空間が、静寂で満たされているのに気が付いたのです。熊谷さんの絵を、こんなにも大勢の人が求めているのかと驚くほど、様々な年代、多くの人々がいるというのに、空気がしんと静まり返っている。
みんな、仏さまの像を拝むような気持ちで、絵を「体験」しているのではないかと思いました。
熊谷守一さんのことを知ったのは、30年ほど前に遡ります。図書館で、『蒼蠅』と『へたも絵のうち』と言う、熊谷さんの言葉が聞き書きされた本を偶然にみつけ、当時は古書で探すなんて言う考えも浮かばぬまま繰り返し借り、読書ノートに書き写していた。ちょうど、フルタイムのイラストレーターとしてスタートした頃。熊谷さんの数々の言葉には、以来ずっとお世話になっている。絵を描くことの心得のように、影響を受け続けています。
熊谷さんの絵や書には、観るたびに新しい思いが起こる。何か宇宙の根源的なものと通じているからではないかと思う。それはひとえに、ものを「よく観る」。そして「よく感じる」ことから始まるのではないだろうか。
「同じものを何度も描くうち、よいものが生まれる」
うん、対象も、自分の描いた絵も、よく観ること。あと、光と影を、平面的な着彩で表すことなども、今回の展覧で響いた。
ご本人も好まない呼び名だと本で知ったせいもあるのか、私にとって熊谷さんは「仙人」ではない。もっと生な人間のように思います。
絵がうまく描けないとき、それを「おもしろい」などと仰る。でもはたから見ている奥さまによれば、画家はそんな時、怖い顔をしている。でも「おもしろい」とご本人は思いながら描いている。
篠田桃紅さんもまた私の心の師匠ですが、やはり上手く描けないとき、「自分はこの程度なのだ」と思って、くよくよしないとあった。くよくよしないということは、「次」を見ているということで、やはりそれは「おもしろい」ことなのではと思う。
上手く描けないことがほとんどの私にとって、なんと励みになる言葉だろう。
あれはいつ頃だったか、今は豊島区立になった、千早の熊谷守一美術館に初めて行った。一家が暮らしていたその場所に、次女の榧さんが建てられたモダンな美術館。ちょうど榧さんご自身が個展をされていて、ひとけのないギャラリーにひとりでおられた。言葉を交わした記憶はあるものの、この方が・・・とドキドキして、何を話したか覚えていない。今だったら、こんなこともあんなことも訊きたいのに。若かったのですね。
さて、何かにものすごく感動をした後には、おまけのように「不思議」が起こるものですが、展覧会にノックアウトの翌日、三島に所用で出かけた折、こんな白猫に出合いました。お寺の門にたたずんで、こっちを向いて。その眼は昨日観てきた熊谷さんの描く「白猫」にそっくりだった。熊谷さんは猫の眼に、あるリズムを与えていた。この子の眼にもそれがあった。
ありがとう、の思いで写真を撮りました。立ち去りがたかったけれど、猫の方が先に、次の用事へと去って行った。いつも猫に出合ったときにするように「車に気を付けるんだよ」。私も去りながら、心で唱えました。