不真面目な寄り道
先延ばしにしていた紫陽花の剪定作業を、先月の暑い中、エイヤッとようやく片づけた。大きめの株が2つあり、昨年の剪定の仕方が悪くなかったようで、今年もたわわに咲いてくれた。
枯れてゆくさまも美しく、得も言われぬ色彩とテクスチャーを見せてくれる紫陽花の花。今年も目と心に焼き付ける。
イギリスのCountry Living誌の仕事をしていた時、与えられるテキストから自由に題材を選ぶことが出来た。無理せずに好きな物を選んだ。もともと克明に描くことはしない、というか出来ないので、これをこんな風に描いてくれと言われなかったことで、自分らしさを発見し育てることが出来たと思う。
日本の文芸誌の仕事も同様で、編集者さんからあれこれ言われることはなく、自由に描かせてもらうことができた。
こんな風に甘やかされて育ったためか、描けない花というものがある。紫陽花はその一つ。何故かはわからない。
絵には描かない。でもこの感動はきっといつかどこかで生きる筈。だから、無理はしない。
目にした感動を、すべて描くことはできない。描けないことに悩むより、今の自分にできることを一歩踏み出せば、きっと次の景色が見えてくる。記憶に刻まれた、たとえば紫陽花の朽ちた色合いがふっと現れ、助けてくれることもあるだろう。
もうひとつ、ずっと先延ばしにしていたことがあった。パソコンの買い替えです。買い替えることで生じる労働を想像するだけで息苦しくなりながら、重~いパソコンをずるずる引きずっていた。でも、もうへとへとの玄界灘。これもついこの間、とうとう敢行した。
そんなわけでここ数日、頭がパンパンになっていました。
長く使った、前のパソコンの時代と今では、ものすごい進化が起こっていた。錆びたブリキみたいな脳に油を注し注し、検索 → ダウンロード → 設定 → 検索 → ダウンロード → 設定・・・を繰り返し、なんとか頑張った。メールアドレスも、今使っているものが、そのうち使えなくなることがわかり急いでメインを変更した。
11月のグループ展のことも考えなくちゃいけないし、定期的に制作している雑誌の仕事もある。草取りもやらなくちゃ。運動もしなくては・・・。must や have to の日々が続くと、「あ、まずい」と警報が鳴る。
「もっと不真面目でいーよ」
暗い空の雲間から声が聞こえる。そうだった。「そんなに必死にならなくても」いーんである。ハッとして「真面目」にブレーキをかける。急ブレーキは危ないから、車の教習所で教わったように、ジュワーッとゆっくり踏む。で、久しぶりにこの、寄り道みたいなブログを書いているというわけです。
やなせたかしさんは、仕事のエンジンを切らなかったという。先日観た、NHKのアーカイブ番組でそう仰っていた。切っちゃうと、戻るのに時間がかかるのでしょう。小者の私も、この仕事を始めた若い頃からそう感じていたので、恐れ多くも共感した。
「休養してると、だらっとなるんですね。要するに絶えずエンジンをかけっぱなしにしとかないとね、あとの案がもう出なくなっちゃうんです。一日休むともうわからなくなっちゃう。なんというか、ひとつの反射神経みたいなので描いているんで、ちょっと休むともうわからなくなっちゃうんですね。ほんの少しでも仕事してる。寝ててもギャグを考えてる」
やなせさん、83歳のお言葉。
このブログを書くこと、意味のないスケッチやコラージュは、エンジンを切らずにできる「寄り道」なのかもしれない。
しかし、雲間からこっちを見てくれてるのは、いったい誰なんでしょうね?