人はなぜ絵を描くのか
先日、上野の科学博物館で、小学生の甥と姪たちを連れ、ラスコーの壁画展を観てきました。とても面白かった。歴史の教科書か、美術の教科書か、どちらかで漠然と知っていたこの2万年前の動物の絵。おそらくは何人もの絵描き(?)たちによって、永い時を経て描き継がれていった絵。画家の個性の違いも興味深い。それよりなにより、遠い昔のクロマニヨン人の手によって描かれた壁画のレプリカや映像を前に、まず素描、描写力の高さに圧倒された。
光の届かない、暗い洞窟の奥深くに、頼りない獣脂ランプの灯りだけを頼りに、また鉱石をつぶして得た貴重な絵の具で、あんなに大きな絵が、いったい何の目的で描かれたのか。ネットで調べても、その定かな理由はみつからない。動物への畏敬、祈り、呪術的な目的、さまざまな仮定はできても、本当のことは誰にもわからない。
中に、「教育」が目的であったのではないかと書いている人がいた。子どもたちに狩猟の技術を教えるためではないかというのです。私はまったくの無知の素人だけれど、なんとなくこの考えが弦をはじくようにピーンと胸に響いた。
奥深くに描いたのは、住居を兼ねる入り口付近では、煤や天候で絵が傷むからかもしれない。奥であれば、先祖の知恵を長く残すことができる。農耕文明の始まりはまだ先。狩猟は生きることのすべて。そして暗いとはいえ、昔の人類は、今より目がよかったのではないかしら。わずかなランプの光でも、その図を見て理解することができたのではないかな。
そもそも目がよくなければ、動く野生動物たちのことを、あんなに写実的でダイナミックで、デッサン力高く描くことは難しいし、またそこに魂を吹き込むこともできないと思う。
そこで言語のことが気になった。人はいつ頃から言葉でコミュニケーションができるようになったのだろう。これもまた誰にもわからないことだけれど、7万5千年前くらいにはネアンデルタール人、そしてこのクロマニヨン人たちも、素朴な言語を使っていたという意見が定着しているようで、だとしたら時が進んだ2万年前には、原始の言語も少しはソフィスティケートされていたのではないか。
言語が進めば、想像力は、どんどん羽ばたいていったと思う。絵の表現力も同時に進んでいっただろう。もちろんまだ文字は登場しない。ずっとずっと先。
こんな話をふと思いだした。
文盲のある高齢の女性が、思い立って字を習い始めた。一昔前にはまだそういう方も日本にはいた。彼女が言うには、「『夕日』という字を覚えたときの感動が忘れられない。この字を読めるというそれだけのことで、以前とは夕焼け空の見え方が、まったく変わったんです。」
子どもが初めて鉛筆で、またはクレヨンで絵を描くときのように、絵の具が石の壁に着く感触の単純な快さから始まり、表現力が高まれば仲間がそれを見て素朴な言語を発し感動する。よろこんでくれる。自分はもっと描くべきかもしれないと思うし、仲間もそれを希望する。子どもたちもそれを見て、まだ見ぬ世界について大人たちに質問する。壁画を描くキャンバスは、洞窟の奥へ奥へと・・・。
こんな自分勝手の想像を、果てしなく許してくれる、実に、本当に、面白い展覧会でした。
壁画以外にも、クロマニヨン人の作る道具類の細工のすばらしさと、彼ら自身の姿のレプリカがとても興味深かった。
その姿は、昨年パリで開催された際の様子が見られる、こちらのサイトからご覧いただけます。彼ら、まるでヒッピーみたいでカッコいい。というか、ヒッピーが真似をしていたのですね。遠くの獲物を指さしているかのような勇ましい女性のポーズにはまって、甥や姪と真似をしながら歩いた。
それとフランスの文化・通信省が作っているラスコー洞窟のサイトが迫力! ご興味があったら、必見です。さすがのお国柄。想像を掻き立てられるウェブデザインに、文化への誇りが感じられてうらやましい限り。(注: 洞窟の不気味さがまんべんなく表現されています。怖がりの方はなるべく昼間にご覧くださいね。)