16 Aug 2025

 



'Knock on Wood'

 この英語の表現を知ったのは、中学か高校の頃、当時ラジオでよく流れていた David Bowie のヒットソングからだった。その20年後、イギリスに暮らしてみると、くしゃみをしたときの 'Bless You!' みたいに、使用頻度の高い言葉だと知ることになる。例えば自分の幸せや幸運を人に語った時、その幸いが逃げてしまわないようにおまじない的に付け加える。近くにある木製のもの(木には精霊が宿ると信じられているから)に触れながら 'Touch wood' または 'Knock on wood' と唱える。

 SNSなどでうれしかったことを記すと、自慢のように映る事もあると思う。しかしうれしいことや幸いを、口をつぐんで誰にも伝えない、と言うのもつまらない。ストレートな悲しみ、喜びの表現は大切。同時に、形を変えて表すということが必要なときもある。

 たとえば、絵を描く、文章や詩に書く、音楽を奏でる、これらは自らの幸せや感動の体験を、他者の五感に訴える形に変形させたもの。変形させることで共感につながる。芸術って、長い歴史の中で人が謙虚に思い至った、世界を理解する偉大な工夫なのだとあらためて思う。

 現在、水彩レッスンと、コラージュレッスンを、オンラインや対面で行なっていますが、どうやら自分という講師は、皆さんの絵のいいなぁ、ってところを、どうしたらお伝えできるかが勝負だと思っているフシがある。こちらも毎回手探り。それが面白い。だからこんなスタンプは、まず使わない。


 

 
 でもじっと見ていたら気付くことがあった。これらはよく、自分が自分に投げている言葉じゃないか。

 先日の「べらぼう」はまたまた、私にとって神回でありました。片岡鶴太郎さん演じるあやかし(妖怪)画家の鳥山石燕が、トラウマに囚われた歌麿に語り掛ける言葉のすべてが、胸の奥までずしっと響いた。以下、ちょっと長くなりますが、覚書を兼ねて記します。

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 石燕:三つ目ー!
 歌麿:憶えてくれてたんですか、
    ちょっと遊んだだけのガキのことを。
 石燕:忘れるかー。あんなに愉しかったのに。
 歌麿:愉しい?
 石燕:ああ、愉しかったぞー。
    お前は愉しくなかったか?


 歌麿の最近の絵、思うように描けずにぐちゃぐちゃに塗りつぶされた作品を見て


 石燕:あやかしが塗りこめられておる。
    そやつはここから出してくれ、出してくれと呻いておる。
    閉じ込められ怒り悲しんでおる。

 石燕:三つ目、なぜかように迷う? 
    三つ目の者にしか見えないものがあろうに・・・。
    絵師はそれを写すだけでいい。
    写してやらねばならぬ、とも言えるがな。
    見えるやつが描かねば、
    それは誰にも見えぬまま消えてしまうじゃろう。
    その目にしか見えぬものを現わしてやるのは、
    絵師に生まれついた者のつとめじゃ。

 歌麿:弟子にしてくだせえ。
    俺は俺の絵を描きてぇんです。
    おそばに置いてくだせえ。


 舞台は変わって、石燕の画室。


 歌麿:先生の三つ目の眼には、
    あやかしが見えるってことですよね。
 石燕:そういうことじゃなあ。
 歌麿:あの、俺もほんとにそんな眼を持ってるんですか?
 石燕:まぁたぶん、持ってんじゃねえかなあ。
 歌麿:たぶん、って・・・。
 石燕:まずはその辺のもん、なんか描いてみろや。
    持ってりゃそのうち、なんか見えて来るさ。
 歌麿:ほんとですか?
 石燕:(絵を描きながら、上の空の調子で)たぶん・・・。
 歌麿:いい加減だなあ。
 石燕:そのくらいでちょうどいいのさ。


 歌麿は鶯さえずる庭に咲く、牡丹の花(歌麿という品種を用意した演出にあっぱれ)のスケッチを始める。今まで見た事もない程、いかにも嬉しそうに花を観る歌麿を演じる染谷将太さん。解き放たれた表情に、わかるよ、歌ちゃん! 胸がいっぱいになりました。

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 石燕の言葉は、悩める者への、なんと優しい、慈しみに満ちた励ましだろう。他者と自分を比べたり、自分、自分、と自分にこだわり過ぎていると、周囲の世界がほんとうには見えてこない。

 こんな有り難き「べらぼう」が、このドラマには大勢出て来る。面白くてたまらない。




 父が若い頃から使っていた、木製のスタンプケース。この中に、さっきの辛口スタンプも入っていた。

 昔のものは本当によくできている。佇まいが控えめでも、存在感がある。きれいに拭いて、作品に使っているスタンプコレクションを収めた。




 長すぎるブログの最後に、大好きなこの詩を。まだ戦後10年ほどの頃に、武満徹さんがラジオ番組のために作られた曲だそうです。


「小さな部屋で」 作曲:武満 徹 作詞:川路 明

 小さな部屋で 父さんが言った
 おまえに なにもやれないが
 がまんして がまんして
 おまえの胸は 若いんだから

 春が来たけど なにもない
 夏が来たけど なにもない
 なにもないけど あたたかい

 あたたかいのは 空と風
 あたたかいのは 雲と光

 ああ 人のこころの
 人のこころの 暖かければ
 なにもないけど それこそすべて


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 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

4 Aug 2025




公園にて

 暑い日が続いています。皆さん、いかがお過ごしでしょう。

 うちのあたりでは、街を歩いている人がとても少なくなっています。皆、クルマで移動するから。歩いているのはそれができないお年寄りばかり。出会うたび、「お互い気を付けましょうね」と心でつぶやく。

 自転車やバスで移動すると、こんな風に今まで目に留まらなかったことが見えてきます。お年寄りばかりが炎天下を買い物に歩くという、地方都市の異常事態。自治体は何か解決策を考えなくちゃいけないです。

 自分も、長い距離の自転車移動の際は、途中で休むようにしている。この写真の公園も、休憩場所のひとつ。

 ちょうど正午の頃でした。もしアスファルトの通りを歩いていたら、日陰は皆無でしょう。しかしここには木立があります。大きな傘のように無料の日陰を作ってくれている。ベンチに腰掛け、風が葉っぱを震わせながら立てるザーーーッ、ザワザワ、というコーラスに耳を澄ませた。




 この日は台風が遠くを通過するとの予報でしたから雲の流れも速く、クリアに風があっておかげで意外にも涼しかった。「風はやわらかな化石」と表現された星野道夫さんの言葉を思い出し、土ぼこりが舞う様子、木の葉の揺れ、浮かぶ雲をしばらく眺めながら水筒の冷たいお水を飲み呼吸を整えました。

 そろそろ、と立ち上がると、公園のトイレを掃除している人が居る。市の職員の方かと思った。でもAさんでした。

 うちの近くのゴミステーション掃除は、自治会のメンバーである私たち居住者が順番にやることになっています。しかしお仕事の都合で、その務めが夕方以降になってしまう人も少なくない。Aさんはその前に、カラスが食い散らかした痕や、ルールを無視して出されたごみの片付けなど、人の嫌がる仕事をコツコツとボランティアでやって下さっている。簡単に真似のできることではありません。近所のみんながその労に感謝している。

 しかしあそこからだいぶ距離のある、この公園のトイレまできれいにしてくださっていたとは! 首にタオルを巻き、ペットボトルで水を流しているAさん。感謝の気持ちを伝えた。クルマで動いていたら、知る事のない光景だった。

 休憩しても、ペダルはそれほど軽くなるわけじゃないけれど、心のうちにも風が抜けた。大きな力で背中を押されたような思いのする、昼過ぎの出来事でした。