7 Jul 2025

 



響く紫陽花

 この美しい花瓶は、あるとき沼津の生徒さんたちが贈ってくれたもので、大事にしている。私が篠田桃紅さんの作品と著書の大ファンであることを知って、ある生徒さんがネットでみつけてくれたもの。もとはお茶のリキュールが入っていた。

 1960年代の古いもので、蓋のコルクが破損していたため飲むことはためらわれたが、濃い緑でしっかりとしたお茶の香りがした。調べるとサントリーはこのリキュールを現在も販売している。いつか手に入れてみようと思う。紙のラベルには、今も桃紅さんの書が使われている。




 手まり咲きの紫陽花を描くのが苦手で、イラストレーターとしては恥ずかしいことだけれど、気に入ったものができたためしがない。どうしても子どもの頃に流行ったアレ、ぎっしりとカラフルな花で飾られたスイミングキャップみたいに見えてしまうのだ。

 ある年の夏、婦人之友社さんから『花日記』という、大判の3年連用日記に絵を描いてほしいとの依頼を頂いた。期間をひと月半ほど頂いただろうか。すべてのページに絵が入るので、今数えてみたら花の絵を66点(うち数点はガーデングッズ)。それから表紙画も描かせて頂いた。

 性分ってこういう事を言うのだろう。私の小さな水彩イラストレーションの描き方は、下描きなしに何枚も何枚も描いて、一番よくできたものを選ぶというとても非効率なやり方。描きながら、次第に「描き順」も決まってゆく。この手法を、自分は「習字」と呼んでいる。コマーシャルな仕事の場合は、このやり方でないとなかなか納得いくものが生まれない。

 描き順が決まってからが本スタートで、1点につき少なくとも5枚。10枚以上になることも多い。あの夏は来る日も来る日も、小さな花の絵を描く日が続いた。

 当然、梅雨の季節には紫陽花を描かなくてはならない。手まり咲きではない紫陽花。庭のヤマアジサイならひとつひとつの花が独立している。描けると思い試みた。

 でももしかしたら今日の自分、この桃紅さんの器と父が植えた庭の花のコラボレーションを目の前に観た自分なら、新しい気持ちで描けるかもしれないと思ったりする。何を描くにも、心にひどく響くものがないと難しい。今は自由に絵を描く日々なので、特にその思いが強い。

 絵を描く身には幸せなこと。心に深く響く何かは、若い頃より確実に増えている。



29 Jun 2025

 


Haste makes waste

 しばらく見て見ぬふりをしていたので、小さな庭の草が元気いっぱいに茂ってしまった。例年通り「草取り」を朝活の項目に加えている。

 可愛いシロちゃんとシジちゃん(先日から居ついてくれているモンシロチョウとシジミチョウ)に励まされながらの労働。応援団よありがとう!ではあるけれど、どうしても時間の経過とともに作業が雑になっていく。雑になればストレスが心中に澱んでいく。

 絵を描くときも同じだ。フレッシュな気持ちを長時間持続するのは難しく、疲れたまま続けると手と心の距離がどんどん離れて行ってしまう。新鮮な気持ち無しに、手は良い仕事をしてくれない。筆や鉛筆はこの身体の、この手の先の延長のようなものだから、疲れや嫌々やることがストレートに紙の上に表れる。だからいかに心を新鮮に保つか。その工夫をしながら、長年この仕事をしてきたように思う。

 一方、疲れた時こそ良い絵が描けることもあるのだと、篠田桃紅さんが昔、雑誌「銀花」に「手」というタイトルで書かれていた。描いて描いて疲れた頃には、雑念や妙な欲が消えてゆく。透明人間のようになった自分を媒介にし、何ものかが思わぬよい仕事をしてくれる。そのように、芸術家の存在迫る文章を理解した。

 これも昔読んだことだが、タモリさんが、「『等身大』ってのが自分にはわからない」と仰っていた。よくわからない言葉、というものが、こんなに明晰な頭脳を持つ方にもあるのだ。どういうことだろう? それはこの言葉がタモリさんの辞書の中に無い、と言うことかもしれない。等身大でないご自身はいないのかもしれない。自分にも、我が辞書にない言葉ってあるだろうか。

 実は最近流行りの「タイムパフォーマンス」、これがよくわからない。そもそも時間の感覚はその時々、また状況によって伸びたり縮んだりするものだと感じる。集中できない、やる気が起こらない、そのような時間が意味のないことにも思えない。ぼんやり眺める窓の外に、突然幸せの青い小鳥がやってくるかもしれないし。



 幼い頃から急ぐこと、競争する事が苦手だったからだろう。だから自然、ひとり絵を描くことを選んできた。なのに、自分が描いている動画を観ると、小鳥の食事みたいに、または早送りの動画みたいに、チョコマカものすごいスピードで筆を動かしている。これはもちろん「タイパ」とはまるで違う仕組みで起こる現象。

 「勝つ話ばっかりしているから、今は。結果を出すことばかり考えてる。人間が使っている言葉って、植物から来ている。『成熟』とか・・・。『結果』ということは実がつくということ。」

 You Tube で視聴した田中泯さんの言葉。「結果」とは、今すぐそこで点数が出る事ではない。そう泯さんは仰る。(ああ、「国宝」観に行かなくては!)

 地味な草取り作業にミニスツールを動員し、雑になるまでの時間がいくらか長くなったのは幸いです。しかし今度は熱中症に注意。急がば回れ=Haste makes waste な、夏の朝です。

18 Jun 2025



Stepping Stone

 昨日のレッスンで作ったこのポケットスケッチブックのことを、メンバーのYさんが「チビスケブ」と名付けた。「紫式部」みたい。由緒正しき響き(?)が気に入った。

 この夏で20年目を迎える Hiro's Art Class。講師が「こんなもの欲しいな」と思ったものを作る無手勝流で、ありとあらゆるハンドクラフトを作ってきました。メンバーの皆さん、よく付き合ってくださり、面白がってくださって、あっという間の19年でした。

 最近は、講師が準備する素材や道具は最低限、または無くてもできるアイデアを試みています。周囲を見渡せば、皆さんすでになにかしらの素材をお持ちだからです。

 コロナ禍の波にもまれた後、オンラインや自宅での少人数レッスンを通して、お一人お一人の個性を今まで以上に感じるようになりました。みんなで同じ素材、同じものを制作するのではなく、それぞれの生き生きとした感受性を発揮して頂いて、それぞれに合ったレッスンをしたい。水彩クラスでは一足お先に試みていて、よい結果を生んでいます。コラージュとクラフトのレッスンでも、同じようにと少しずつ軌道修正しているところです。

 今回も思わぬアイデアが生まれたり、お手持ちの素材をうまく生かしてくださった。おそらくレッスンの後で一層アイデアが湧いてくるのでは? 私の投げかけるアイデアはシンプルであればあるほどよい。しかし可能性をはらむもの、ワクワクする「何か」でなければなりません。


 この形のミニスケッチブックは、以前イギリスの友人たちに頂いたものを参考に作りました。この通りに作らなくてもよいので、お手持ちの布を使ったり、厚紙を使ったり。工夫すること、自由な発想を形にすることが、脳と心を活性化させます。


 こちらは紙と布でカバーを制作。スナップボタンのパチンという音が快い。やったー!と思ったら一つ失敗に気付く。この位置だと、左ページに跡がついてしまうのです。次に作る時は要工夫。

 失敗には意味があります。こんな小さな何かでも、失敗なしに作ろうとすると心が固まってしまって、のびのびとしたプラスアルファが生まれません。自分で転んで、自分で学べば、この先忘れることもありませんし、失敗が成功のもとであることをこうして身をもって感じれば、生きていく過程での励ましにもなる。大げさなようですが、心からそう思います。 

 Failure is the stepping stone to success.

 願わくば、この「チビスケブ」のページのいくつかが、自分の絵を育てるちっちゃな布石となりますように。

9 Jun 2025




鉛筆

 鉛筆は最も身近な筆記具であり画材です。誰もが幼い頃、掌がまだちっちゃなもみじみたいだった頃から手に馴染み、削りながら大事に使うことを心得る。この筆記用具には、木の匂い、芯の匂い、紙への抵抗、デジタルドローイングでは味わえない趣があります。

 道具として歩んできたその歴史を調べてみると、誕生の地はイギリスでした。1560年代に鉱山でみつかった高品質の黒鉛をそのまま、または糸で巻いたり板にはめこんで使ったのだそう。

 そのうち硫黄の粉と練り固めて、1760年にドイツのカスパー・ファーバーが進化させ、「芯」化。カスパー・ファーバーは、ご存知、ドイツの文房具メーカー、ファーバー・カステルの創業者です。

 


 木の匂いはよいものですが、この全身黒鉛のグラファイト鉛筆は安定感抜群。よく使います。鉛筆にしては少々値が張るけれど、amazonで求めることができます。




 お次はフランス。画家であり化学者でもあったニコラス・ジャック・コンテという人が1795年に、黒鉛を粘土と混ぜ焼き固めることにより、芯の硬度をアレンジできるようになったとか。そうやって今使われている鉛筆の「芯」に「進化」(シツコクテスミマセン)していったのだそうです。スケッチや素描に使われるコンテ(黒や茶の角形棒状のチョーク)は、彼の名から来ている。

 最近、イラストレーターを目指していた若い頃、盛んに使っていたコンテ型のハードパステルが出てきて、新たな気持ちで使い始めています。硬度があるから、ハッチング(斜線の集合で描く事)が可能。粉にすることも可能です。何十年も経てこその発見もあるかもしれない。




 絵には「動き」が必要だと思う。気をつけて観ると、どんなに静謐な世界であったとしても、時代を超えて愛されてきた絵画には大きな、または微かな動きが表現されている。動きがあれば、観る人がその絵に感じるものが立体的になり、時間も感じる。自分が描いているような気持ちになることさえある。描かれた世界に入りこむ事が出来るのですね。だからこそ共感され、愛される絵となる。「動き」について、この画材から学ぶことは大きいです。

 色鉛筆は、昔からイギリスのメーカー、Derwent の水彩色鉛筆を使っています。水を使ったり、水彩とのミクストメディアとして使うこともあれば、そのまま普通の色鉛筆のように描くこともあります。色調で分け、立てて使うと、パッと取り出しやすい。いつまでもお行儀よくケースにしまって置かないでねと、生徒さんたちにもお話します。




 このスケッチは、普通の色鉛筆として使い描きました。筆圧とハッチングの向きに気を配って。



 田植えの季節ですね。先日、新幹線の窓から「おお、お米よ!」と水田を写したら、手前の木々が色鉛筆画のように! 偶然の産物に、また鉛筆愛が高まりました。



3 Jun 2025


 


It's a Good Day

 イギリスのジャズシンガー、Clare Teal のアルバム 'They Say It's Swing' で知ったこの曲は、ペギー・リーと当時の夫、デイヴ・バーバーが作曲した1946年のヒット曲。instagramの投稿にはBGMとしてシェアしました。

 歌詞を読むと、「大河 蔦重」の一週前、太田南畝が放った「めでたし」に通じる人生讃歌に思え、訳してみたくなった。

 
  歌を歌うにめでたき日
  前進するにめでたき日
  何も間違っちゃいないよね
  朝から晩までめでたき日

  靴を磨くにめでたき日
  鬱を払うにめでたき日
  得るはあっても失うはナシ
  朝から晩までめでたき日

  お天道さんにおはようさん
  日は上り輝いてる
  すぐに出発できるよね
  ここゾと気合を見せたなら
  通行証は君の手に

  病気を治すにめでたき日
  料金払うにめでたき日
  深呼吸しよう 薬を捨てよう
  朝から晩までめでたき日



 レッスンの無い日はたまっていた片付け作業、庭仕事、欲しかったものを工夫して作ったり、絵を描きたい気持ちをちょっと脇に置いといて、さもない「めでたき事」をするのが愉しくてなりません。

 この日は、だいぶ前にインテリアファブリックの某輸入会社で求めたサンプルの布を正方形に袋縫い。パン生地を発酵させる際の保温用カバーを作りました。この生地が好きで好きで、以前ひざ掛けに仕立てて、クラフトの個展に出したこともあります。料理研究家、野口英世さんが気に入ってお求めくださり、ブログで紹介してくださったのは有難き思い出です。

 ウールのように見えるけれど、ずっしり重くてちょっとひんやりする。麻、または麻と何かの混紡だと思う。ソファーのカバーやクッション、カーテンなどに使われる上等な布。色も明るさの中に落ち着きがあって好みだし、こんなのもう二度と出逢えないよなぁ・・・。そんなわけで残り数枚を出し惜しみ。なかなか手が付けられずにいたのでした。

 でも、そんなこと言って後生大事に取っておくような年齢ではなくなってきました。好きな物はどんどん暮らしに生かすべし、です。

 コラージュクラスもその方向へ向かっています。新たに素材を買うこともたまにはアリですが、なるべく「今ここにあるもの」をめでたき何かに生かそうという試みを実践中です。またこちらでもご紹介したいです。



31 May 2025



散歩道から

 運動不足でひどい目に遭ったことがあります。わけあって家に引きこもりがちだったある冬の後、腰椎を傷めた。痛みは数か月続いた。以来、毎朝の腹筋運動、ストレッチ、骨を丈夫にするコツコツ体操、クルマは使わずなるべく歩きか自転車、そして手のひらを太陽に!日に当たる事を心がけています。

 「カルシウムはサプリではなく毎日の食べ物から摂りましょう。それならいくら摂っても害にはなりませんよ」。整形のドクターにアドバイス頂く。煮干し、ナッツ類、海藻類、大豆食品に、青菜類もよい。パスタ料理に入れたりする。(余談ですが、お米不足で心配なのは、和食離れです。現にお醤油の減り具合が前と違いますもの)

 先日、少し遠出の散歩をしました。新緑の季節、このトンネルをくぐりたくて。




 緑の景色には、よーく観ると、多様な色が隠されています。レッスンで緑の描写が難しいと質問されることが時々あるのですが、写真を資料に使う際は、そこに写る色に頼り切らないほうがよいとお伝えします。写真や画像の光学的仕組みはよくわからないのだけれど、飛んで消えてしまう色、つぶれてしまう色がかなりあるように思う。この場合、写真は充分ではないのです。

 その場でスケッチできれば一番。でもいつもとはゆきませんね。画像や写真を頼りにするには、まず紙に出力、プリントアウトします。そうすることで、光源として光を発するスマホやPCの画面からより、その時の「印象」がずっと深く心に呼び覚まされる。その「記憶」と「印象」を描くことが何より大切で、そうであればこそ、絵を介し、それを観てくださる人と共感が出来る。これは抽象でもコラージュでも、同じだと思う。

 ただ表面を写すのではなく、その形、色彩、陰影から自分がキャッチした「思い」を表現する。例えば上の写真なら、 


  少しひんやりした空気
  新緑のトンネルに道が一本伸びている
  その向こうには
  いったい何が待っているんだろう


 この風景の要素全てが私に与えるワクワクした気持ちを描かずに、何を描くか、ということです。 

 ここではなく別の道ですが、ハニーサックル(忍冬:スイカズラ)の花があちこちに咲いていた。少し摘んで帰宅。蔓植物の形の面白さ、甘い香りをしばし愉しみました。

26 May 2025



蔦住

 うちの庭は、庭と呼べるか怪しいような、家の角に引っ掛かったL字金具みたいな、短い廊下的、小さな小さな地面です。日当たり、風通し、環境も決してよくない。でも長く暮らすうちにいろいろ工夫を重ね、宿根草の助けもあり、身の丈に合った自分らしさが出てきたと、最近思う。

 ある年、コンクリートのポーチの高さの部分や、父が余ったブロックで作った一段高い花壇の高さの部分など、味気ない灰色部分、目隠ししたいところにアイビー(蔦)を植えた。はじめは点々と数十センチ間隔に植えたものが、あっという間につながってきれいに覆われ、蔦って凄い。パワーを感じました。力強い、でも愛らしい。葉っぱは常緑で、これも自ら敷いた赤煉瓦と相性が良い。

 ロンドン時代の散歩道に建つ家々には、よく名前が付いていた(拙著、『イギリス暮らしの雑記帖』第3章 House Warming 「名前のある家」参)。うちのことも、できたら「アイビー・コテッジ」とかって呼んでみたい。でも昭和の住宅です。ぜんぜん似合わない。

 大河ドラマ蔦重、昨夜も見入ってしまいました。狂歌のシーン、笑った!特に太田南畝が治郎兵衛さんに付けた「おとものやかまし」がツボに入り、笑いこけました。

 そうだ、控えめに「蔦の住宅」、略して「蔦住」はどうだろう。少し気取りたいときには「『蔦の住処』略して「『蔦住』です」と言えばよい(誰に?)。

 ・・・というくらい、いまや蔦がいっぱいです。

 先日はイヌツゲに続き、椿の剪定をした。風通しよくしておかないと「にっくきチャドクガ」にやられてしまうから、こればっかりはのんびりしていられない。

 やり終えて、夕方、達成感と共に眺めていたら、まだ薄緑の紫陽花が愛らしく、上のスケッチを描きました。真ん中が剪定後の椿の木、右の鉢は紫式部です。このコも、じきにきれいな薄紅の小花が咲くんですよ。

 蔦住感、伝わるでしょうか?