5 Apr 2016



思想の時間

 日曜日、雨の中、またまたクレマチスの丘に出掛けて行った。

 丘には美術館が3つと文学館がひとつあり、今まで入ったことの無い写真の美術館に、本橋成一さんの写真展「在り処」を観るために、またチェルノブイリの事故で被爆した村と人々を録ったドキュメンタリー作品、「ナージャの村」と「アレクセイと泉」を観るために。

 この日はトークショーもあり、本橋さんと作家の平松洋子さんとの対談も聴くことが出来た。

 自分の写真が過去のものから現在まで展示されたのを観ていると、「自分の居心地のいいところを歩いてきたんだな」と思うと、本橋さん。「出会った人によって自分の思いが変わっていくのですから、それはたのしいことですよね。」とも。

 炭鉱、大衆芸能、サーカス、屠場、駅・・・。「社会の基底にある人間の営みの豊かさ」を写しだしてきたとパンフレットにある。私は昭和30年代生まれで、写された炭鉱や屠場や沖縄以外は、子供だった自分になじみのある景色ばかりだ。サーカスや田舎芝居、ちんどん屋さん、紙芝居屋さん、上野駅。そうだ、駅は今よりずっと泥臭い場所だった。

 デジタルのカメラを使わない本橋さんは、暗室に居る時間を「思想の時間」と呼んで、大事にしていると仰っていた。デジカメは、確かにすごい写真を撮る。でもどんなにすごいかと思う「時間」が欠如している。ただ、スゴイね、スゴイね、で終わってしまうような気がすると。

 最近始めたインスタグラムの画面を指でスイスイ流すとき、ふっと感じる虚しさを言い当てられたような気がして、ズキッと来た。
 
 IZU PHOTO MUSEUM で観たモノクロームの写真の世界と、ホールで観たカラーの映像の世界。両方は手をつなぐように通じている。通じているけれど、映像作品には別の暖かさと穏やかさがあって、静かな気配に満ちて、だからこそと思うのですが、胸に残るものがとてつもなく大きかった。途中うとうと眠ってしまった・・・にもかかわらず、分かったようなことを言うのをためらわない自分が恥ずかしいけれど、特に「アレクセイと泉」は今も映像が浮かぶ。もう一度、いや何回でも、観てみたいなと思う。坂本龍一さんの音楽も好かったです。
 
ホームベーカリーさえあれば、捏ねる手間が省ける。よし、手に入れようとほとんど決めていた。適当な機種も調べた。それでもどうしても一歩が進まなかった。その訳が分かった。「思想の時間」が私にも必要なんだ。昨日パンを捏ねながら、そんなことを思想している自分に気付いた。