9 Oct 2018




完璧な空

 「きれいな空だ、ドン」
 
 「完璧な空だと思うか?」
 
 「完璧って何だ」
 
 「完璧な人格っていうだろ?そういう意味でさ」
 
 「空はいつだって完璧さ」
 
 「一秒ごとに変化してるのに完璧だって、そう思うか?」
 
 「ああ、海もそうだ。完璧だ」
 
 「完璧であるためには、一秒ごとに変化しなくてはならない。
  どうだ、勉強になるだろう」

         リチャード・バック『イリュージョン』より


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 若い日に読んだこの言葉、今まで数えきれないほど、様々な場所、様々な状況のもとで思い出し、心のバランスを取る助けにしたと思う。

 写真はイマソラじゃなくてキノソラ。近くにこんな大きな空が見える場所があることが、有難い。




 一方こちらは、イギリスを代表する風景画家、コンスタブルが「空」を描いた習作。イギリスのインテリア誌 'The World of Interiors' がだいぶ前に特集したもの。

 この絵は 'Cirrus Clouds' 「巻雲」というタイトルで、1822年にロンドン北部のハムステッドで描かれた。

 この頃、コンスタブルは100枚もの空の習作を、比較的小さな画用紙やカードに描いていた。特に好んだ空は、正午の頃と夕暮れ時だったらしいが、夜明けから日没まで、晴れても雨でも嵐でも、その目を天に向けて描いていた。記事には、一枚にかけた時間は約一時間とある。

 後で時間をかけて、ちゃんと読んでみようと思う。

 この巻雲の絵がプリントされたカードを、長らく机の前に貼っている。17、8年は貼っている。今、久しぶりにひっくり返してみたら、Victoria & Albert Museum で買ったものだった。


5 Oct 2018




我らが 'Ladies' の作品展

 今年は春に沼津のお教室展が三島であり、この秋には銀座で東京の生徒さんの展覧会です。今まで一年半に一度のペースで行なってきて、今回が東京は第6回。もう6回もやったのか、とか、あっという間だった、などとは思わない。思い返しても一回一回に、ぎっしり中身がありました。お客さまの反応から感じる手ごたえも、年々大きくなってきました。

 新しく入った方も、以前からなさっている方によい影響を受け、搬入日に向けて制作に集中されています。

 作品を作るとは、自分自身を知ること。ちっともノラナイ自分、ああ、また失敗の自分、それでも作品に向かってゆくうち、あ、これがいい!・・・と思える瞬間は、ダメダメな自分にくたびれた頃かもしれません。人に好まれたいという肩の力みたいなものが、ストンと抜ける時が来る。ただただよろこびの回転で、創れるときが来る。

 仕事や日常の些事のなか、グループ展に出品し人様にお見せするもの、しかもオリジナルの作品を作るとは、大変な事だと思います。それでも自分ひとりだけで満足するのとはぜんぜん違う面白さがある。

 展覧会は夢の「目標」。だけど展覧会は締め切りのある苦しい「制約」。でも同時に「解放」でもある。作品作りは未知の自分に出合うチャンス。自分のことを何も知らないお客さまと、作品でつながる面白さ。そして気付くと、あんなに頑張った作品は、次第に小さな自分を離れてゆく。

 よくお客さまから「生徒さんは先生と同じ作品を作るのではないんですね」と驚かれます。クラスのメンバーには様々な方がおられ、どなたも今までなさってきた経験や日々の感動をいっぱい、身の内に湛えていらっしゃる。他の人にはできない、その人にしか作れないものがある。それは何かというと、自分がよく知っているもの、馴染んでいるもの、または単純に大好きなもの、ではないかと思うのです。

 そんな作品作りをお手伝いしながら、その方の未知の感受性を一緒に経験できる瞬間は、かけがえのない喜びです。教室にギャラリーに、おひとりおひとりの作品が、モザイクのかけらのようにキラキラ存在すること。それが私の好む、グループの在り方。

 exhibit のページに、詳細をUPしました。どうかぜひ時間を作って、我らが 'Ladies' の作品たちを、観にいらしてください。

3 Sep 2018




言葉の混ざり糸

 ある方にご依頼を頂き、小さな贈り物のための絵を描きました。どんな絵にしようか。おめでたい場への贈り物ですから、やっぱり花。一束の花を描いた。

 小さな絵にも時間をかけ、少しずつ手を加えてゆく。その過程が難しくも面白い。額はどれにしよう。額にも小さな細工をしよう。そんな具合に絵が歩いてゆく。一歩。また一歩。

 その間にも、様々な日常が過ぎてゆく。

 読書はバージニア・ウルフに、相変わらずはまりっぱなし。「春樹さんはなぜ自分の考えていることがわかるのだろう」。村上春樹さんの読者の多くが、そう思うのだと聞いたことがある。私も、バージニア・ウルフは、なぜ私の考えていることがわかるのだろうと思う。

 でもそれを正面切って言うのは、作家に対しちょっとずうずうしいような。私はそれを、自ら掘り起こしてはいないし、考えてもいなかったのだもの。バージニア・ウルフという作家が、絶え間なく創作への衝動に突き動かされて、突き動かされて、やっとのことでみつけた水脈。それが私や多くの読者の抱えているある「喪失感」を潤す、ということなのかもしれない。(所有しているものについてはなかなか共感できないが、喪失したものについてなら人は共感ができるのだと、どこかで読んで妙に納得したばかり。)

 デザインもまた表現。たしか三宅一生さんも言っていた。デザインは、それを観た人が、まるで既視感のように「あ、これを私は知っている」と思うことで成功する・・・というようなことを。それを見た瞬間、初めて目にするにもかかわらず、瞬時に気持ちに馴染む何かを、優れたデザイナーは今日も世界中の街のどこかで、惜しげなく大衆の前に差し出している。

 最近、アメリカの画家、ヘレン・フランケンソーラーの言葉に感動しました。

 「本当に素晴らしい絵とは、まるで一瞬のうちに起こったように見えるものです。もしある絵が、労力と過剰な仕事によって生まれたかのように見え、あなたが作品から、『そうか、これをああして、そうしてから、ああしたのだな』と読み解くようなものならば、それは私にとって美しいアートではあり得ない」

 中森明夫さんが、一度だけさくらももこさんに会った時に、姪にサインをお願いした。そのとき、鉛筆で下書きをしてから、まる子の顔を描く様子、そしてあとから鉛筆の線を丁寧に消しゴムで消すさくらさんの様子に驚いたという。さくらさんは、そうしないと描けないのだと仰ったそうです。

 画家が絵をささっと描けると思うのは、間違い。でも、あたかも迷いなくササッと描いたもののように観てもらえたとしたら、フランケンソーラーの言葉のように、その絵はある程度上手くいったと思っていいのかもしれません。




 亡くなってから、毎日アレサ・フランクリンを聴いて、パワーをもらっています。パンチの効いた 'Think' という曲がある。ビル・クリントンはアレサへの弔辞の中で、自らのスマホを取り出し、この曲を会場の参列者に贈った。こういう場面を見ると、憂いの多い今のアメリカに、一筋の光を見る思いがする。

 私も ’Feel' と 'Think' の間を行ったり来たりしながら、混ざり糸でセーターを編むような気持ちで、今日も仕事ができたらいいなと思う。

 

16 Aug 2018



朝の庭

 ここのところ、急にワッと降ったりするので数日休んでいるけれど、早朝目覚ましも頼らず起き上がると、褪せたダンガリーとだぼだぼズボンの作業着、手袋オッケー、蚊取り線香オッケー、サングラスと帽子オッケー、の指差し確認。すでにムッとした外気にたじろぎながら、草取りや、忘れられたまま湿って朽ち果てそうになっている庭の隅っこなどを掃除しています。世界で一番狭い庭、と言ってもいいような地面でも、ひれ伏すように作業するうち、次第に「小地」が「大地」に感じられ、心が落ち着いてゆく。

 草にもいろんな個性がある。引っ張ればすぐに抜ける者もあれば、根元でブツッと切れて、しつこく根っこを維持し続ける者もいる。根っこ維持派の代表はシダ。

 ある日、ブツッでもいい。どうせすぐに出てくるんでしょ、と、汗を拭き拭き抜ききった。抜いた翌日にハッとした。この暑さの中、山紫陽花の根元がカラカラに干上がっているではないですか。シダが適度な日陰を作って、この花の木を守ってくれていたことを知った。シダも庭の仲間として、大事にしなければと思った。

 シダは気づいてはいないだろうな、自分が山紫陽花を守っていることを。




 細っこい庭の、これまた細っこい花壇は、父がまだ足腰丈夫な頃にありものの石や瓦で囲って作ったもの。今は私のささやかなキッチンガーデンです。

 バジルは鉢植え。花壇は手前からオレガノ、チャイブ、イタリアンパセリ、サラダバーネット、スープセロリ・・・なのですが、そしてひさしの下なので雨にやられないし、外に出なくても手を伸ばせば摘める位置なので便利、のはずなのですが、日照りに負けてご覧の通り、バジルとオレガノ以外はちっとも大きくならない。前にターシャさんがドキュメンタリーの中でやっていたのを思い出して、布で日除けをした。そのせいか、この頃は少し元気になってきました。

 山口県でいなくなった2歳の男の子を発見し保護した、尾畠春夫さんの奇跡のようなニュースに、力を貰っています。報道陣に囲まれ話をする尾畠さんの指に、トンボがすっと来てとまったシーンには、妖精物語を見るような感動すら覚えました。


14 Aug 2018



山の上の家

 思いがけない贈り物でした。庄野潤三先生の新刊です。包みを開けた途端、あ、先生の書斎。表紙の写真に、胸がいっぱいになった。

 我に返って、これは何の本? 小説・・・ではない。開くと庄野潤三先生のご自宅、山の上のお家の美しいお写真が何枚も、何枚も。

 庄野先生の晩年のお作品、7冊の表紙と、2作の連載挿絵を描かせて頂いた私は、先生と千壽子夫人、夏子さん、龍也さんはじめご家族の温かいお心、担当編集者であられた鈴木力さんのご配慮、装幀デザイナーの方々のお力により、惑星が一直線に並ぶような幸運に恵まれ、何度もこの山の上のお宅におじゃまする光栄を得ました。先生のお作品に、僅かばかりのお手伝いができたことは、私の人生に与えられた、大きな大きな幸いです。

 先生はご自分とご家族の過ごす豊かな時間を、小説に描かれた。小説でなければできない方法で、読む者にそっと、山の上のお家の日常を共有させてくださった。自分も家族の一員になったような気持ちでつい熱の入る私のような読者に、雑誌「クウネル」のインタビューで応えられていたように、「なんとはなしに」読んでくれればと願って。

 山の上のお家で経験させていただいた宝物のような想い出は光。その光は、愉しい時間をより一層愉しくさせてくれる。時には温かな灯台の光になり、導いてくれる。いつかあの頃の想い出を、ほんの少しでも書き残すことができるだろうか。あの時の想いや感動を、それを必要とする人に伝えられるような質を携えながら、表すことができるだろうか。

 そんなことを考えるときは決まって、詩人の高田敏子さん(シューズデザイナーの故・高田喜佐さんの母上)が、『娘への大切なおくりもの』という本のあとがきに書かれていた一文を思い出します。


   堀口大学先生には、数々のお教え、ご好意を頂戴してきました。
   それは私の身には余り過ぎることで、軽々しく筆にすることを
   ひかえてまいりました。

   いまここではじめて、ご好意の中のいくつかを書かせていただきました。
   感謝の思いを込めて、拙い文ですけれど。


 この本で髙田さんは、師である堀口大学について、多くのページを割いている。そのことに、髙田さんのような立派な詩人であっても、こんなに大きな決意が必要だったことをかみしめる。

 当たり前のように過ごす日々の中で、人は充分に心豊かで在ることが可能なのだ。貧弱の水たまりにどぼーんと落ち込む代わりに、その水面に映る青空を見ることを、先生は教えてくださった。毎日の小さな出来事をたっぷりと感じる。自分の持ち時間を慈しむ。笑ったり、歌ったり、味わったり、この世界を感受する時間をケチらないこと。

 山の上のお家での、夢のような想い出に今も育てられ、毎日を過ごしながら、自分の描く絵に向きあってゆくのが、現在(いま)の私に出来る最上のことと信じて。


 『庄野潤三の本 山の上の家』(夏葉社刊)
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12 Jun 2018




言葉の解像度

 ニュース番組で福岡伸一さんが面白い言葉を使っていた。「言葉の解像度」。明快で、信じるに足る言葉について、「(言葉の)粒が立つ」とも言っていた。

 好きで読んでいる作家、ヴァージニア・ウルフが書く文章の解像度を思わずにいられなかった。表現のひとつひとつが貴石の粒になり、物語宇宙に乱反射しているかのよう。『オーランドー』はじめ、実際「意味を超える」ほどの解像度。好きと嫌いがはっきり分かれるとは思うけれど、私には、ああ、今までなぜ読まなかったのか。とくにイギリスにいるときに読めばよかったと、少し後悔。

 イギリスで一番好きなガーデンは?と訊かれたら、迷わず「シシングハースト」と答えます。その邸の女主、ヴィタ・サックヴィル・ウェストの息子、ナイジェル・ニコルソンが描いた伝記『ヴァージニア・ウルフ』(岩波書店刊)が面白い。当時子どもだった眼と心で、母親の恋人であるヴァージニア・ウルフを至近距離から観察する幸運(?)を授かった著者。この伝記、粒が立っている。ヴィタも詩人で作家であったから、文才のDNAもあるのでしょう。翻訳もいい。あと少しで読了するのが寂しい。

 冒頭、子ども時代のナイジェル氏とヴァージニアのエピソードが印象に残った。


   蝶捕りをしながら、彼女は言っていた。

   「言葉で表現しなければ、
   何事も本当の意味で
   起こったとはいえないのよ。
   だから、家族や友達に
   たくさん手紙を書きなさい。
   日記もつけなさいね」。

  
  


 以前から気持ちに馴染む、というか、画家の記した随筆が好きで、愛読書が何冊もある。その中でも、扇の要は篠田桃紅さん。桃紅さんの言葉もまた、解像度が相当に高い。

 心底思っていること、感じていることをそのままに表現し、自分以外の人に伝えたいという欲求が、画家も作家に劣らず高いのだ。自分が抱いた何かを、とにかくきちっと、自分に出来うる限りの簡略な表現で誰かに伝えたい。

 それを為すためには、書き終えて何度も読み返すだろうし、仕上がったと思った後も、不明瞭を発見すればひと刷毛加えることを厭わない。饒舌や目障りを無いものにする潔さも必要。リズム、バランス、色彩、読む人の存在。桃紅さんの本を読むたびに、あ、そうだった、と反省ばかり。事は文章に限らず、日々の生活においてもです。


     私の日常では、香を聞くことは滅多になく、
     印度の人から貰ったお線香を薫らせる
     ぐらいであるが、細い長いお線香を、
     木の葉型の皿に受けて立てるかたちがまず好きである。
     煙が一筋、真直ぐに立つ時は、
     部屋が静かであるあかしのようで心が休まる。


 上の写真の古い本は1978年の初版、桃紅さん初めての随想集『墨いろ』を、ある方が「自分が持っているよりも、あなたが持っていた方が」と、くださった。書き込みのいっぱいあるこの本は、命を渡されたように大切な本。もう30年も前の話です。

 ページを開いたとき、あっ、私のお香立てと同じ。雲の上の存在、桃紅さんと、細い煙でつながったようでうれしかった。

 今は本当に雲の上の人になってしまったこの本の元の持ち主とも、思い出の中の、その方の図書室のようなお部屋とも、また、教えられた様々な言葉のプリズムとも、この本を開くだけで瞬時につながることができる。

25 May 2018




HAC for CHILDREN

 突然ですが、アートクラスをもうひとつ、期間限定で開きます。子どもたちのためのレッスン、Hiro's Art Class for Children です。先ほど、event のページにお知らせを更新いたしました。よかったらご覧ください。お子さん、お孫さん、お知り合いのお子さんなど、ご興味のある方がいらっしゃったら、お気軽にお問い合わせ頂きたくお願いします。

 なぜ急に?と言いますと、親類でドイツに嫁いでいる者がおり、只今幼い娘と一緒に帰省中。以前から、滞在中に子どもの美術教室をやってほしい、娘を参加させたい、とリクエストをもらっていました。

 私の自宅ででも、と言ってくれたんだけど、ここだとなんだかダラダラしちゃいそう。彼女がじゃなく、私がです。以前、幼かった甥や姪と遊ぶ時もそうでした。緊張感がなかなか生まれない。自宅だとスイッチが入らないというか、自分がなかなか愉しめない。

 だったら、きちっと場所と時間を設けて、私も本気でカリキュラム組んで、後に有形無形の何かが残る会にしたいと思ったんです。

 子ども時代というものを思うとき、谷川俊太郎さんの言葉が浮かぶ。人は人生を、長い棒か何かのようにたとえては、棒の片方の端が生まれた時。もう片一方が死ぬ時。端から端までが一生であるかのように考えがちである。でも本当は違って、木というかバウムクーヘンというか、年輪の一番中心が誕生の時であり、一番外側が現在で、それは日々筋を刻みながら外へ外へと育っている。

 だから子ども時代は常に「ここ」に、自分の芯にあるのだ。人はいつでも、自分の子ども時代とコンタクトできるということなのだ。

 レッスンを通して子どもたちから、たくさんの大事な事、キラキラしたこと、教えてもらうことでしょう。

 以前東京郊外の某ショッピングセンターで、お子さんのためのワークショップの機会を頂いたことがある。今回の会場は、大人のレッスンでお世話になっている、沼津のプラサヴェルデ。広々とした館内。天井も高いし、明るくて清潔、建築デザインも素敵なあの建物で開催できることに感謝です。