31 Dec 2017




雑然と散らかった私

 今年もとうとうおしまいの日となりました。あまりバタバタとしていないのは、大掃除ナシ、年賀状ナシ、おせちは手抜きと決めたからです。家族の介護、家のことが忙しくなってきた去年から、無理はしないと決めた。

 それでも一夜飾りはNGと、こどものころから聞いて育ったから、昨日は神棚と仏壇の掃除に加え、お飾りや玄関のしつらえを、ああでもないこうでもないと試みました。

 たいそうなことではなくて、好きな花を少し求め、頂いた水仙の花と一緒に、バラバラの器に飾って置いただけ。でも今年は、友人の兄上、榎木啓さんのお作品、輪島塗長方皿(銘は「暮色」)があって、これさえ飾らせてもらえばバッチリと言う予感があった。ギャラリーで一目見たときからそう思っていた。果たして!その通り。玄関を通るたびにチラ見しては、自己満足でうれしくなっている。それだけでも、お正月の意味を感じる。




 左から啓翁桜、葉牡丹と庭のゼラニウムの葉、菜の花、水仙。桜と菜の花は、ぼちぼち咲いていく。それがまた愉しみ。

 玄関は、Yさんが作って下さったクリスマスリースが素敵で、下ろすなんてもったいない。でも和の飾りもしたい、ということで、傍らに餅花を飾ってみた。



 
 竹筒に、餅花と稲穂と緑の葉を挿した。そう可笑しくない取り合わせだと思うのだけど、どうだろう。 

 室内、自室はまだ「小」掃除の途中。家族みんなが集まるスペースだけは、確保しないといけません。

 そういえばこの間、こんな言葉に出合って、いたく励まされた。


   If a cluttered desk is a sign of a cluttered mind,
   of what, then, is an empty desk a sign?

                   Albert Einstein


   もし雑然と散らかった机が、
   雑然と散らかった心の兆候ならば、
   カラの机とは、いったい何の兆候なんだろう。

             アルバート・アインシュタイン


 この言葉をよすがに、「これでいーのだ」の肯定感とともに、ゆるゆる歩きで来年に向かって参りたいと思います。

 今年も一年、このページをご訪問いただき、ありがとうございました。皆さまもどうぞ、穏やかでよいお年をお迎えください。 


16 Dec 2017



白い紙

  いつも君は白い紙を持っている。
  それはほとんどの場合、計算のための用紙として使用される。
  しかし、もし君が望むなら
  そこに現実を書き込むことが可能だ。
  意味のないこと。嘘。
  何でも書き込むことができる。
  そしてもちろん、
  破り捨てるのも自由だ。

  リチャード・バック(「イリュージョン」より)


 
 最近、毎日白いシャツを着ています。寒気が南下しても、ユニクロの「極暖」があるから無敵です。

 なんとなく、今年のテーマというものがあって、去年はジーンズが再び好きになり、今年は白いシャツ。来年はなんだろう。「あれ」かな? 少し予感がある。

 白い洋服を着ていた人、と言って浮かぶのは、晩年のルーシー・リー(陶芸家)、そしてエミリー・ディキンソン(詩人)。ジョージア・オキーフ(画家)は白と黒を好んだとばかり思っていたら、カラフルな色の布で縫われた独特なワンピースを着ていたことが、昨年ロンドンで開催された大回顧展画像や、サンタフェのオキーフ美術館のインスタグラムでわかった。いずれにせよ、着るものに大いにこだわっていたのですね。

 リチャード・バックの『イリュージョン』を読んだのは、もう何十年も前のこと。当時高校生だった年若い友人から、「いいですよ」と教えてもらった。他にも多くの抜き書きがあって、よく読み返します。私の絵はほとんどが白いバックを残したままだが、若い頃読んだこの言葉が、いくらか影響しているのだろうか。

 写真はインドの手漉き紙、カディ・ペーパーに、色のきれいなフランスの麻の糸で、チクチク縫ってみたもの。カディの質感の濃さのせいか、まるで小さなオブジェが生まれるようで、続けて作ってみたくなる。

 最近は、洋服をわざと目立つように繕うのがファッションらしい。'visible mending' とか言うみたい。この言葉で検索すると、愉快な繕い物が、いーっぱい出てくる。前衛的なファッションリーダーや、アーティストのインスタグラムを観るのも面白い。

 先日展覧会を拝見した西村玲子さんも、チクチクと縫われた小物をたくさん出品されていて、観るだけでウキウキしました。一緒に行った刺繍好きの友人は、不揃いなチクチク縫いに幾分複雑な心境のようで、その気持ちもわからなくはないけれど、完全ではないもの、傾いてたり、どこかにほつれがあるものにも惹かれる私は、解放された。

 美術館やギャラリー訪問の効能は、それに尽きる。解放され、「よし、また新しい気持ちでがんばろう!」と思える事。

 「破り捨てるのも自由だ」

リチャード・バックのこのカゲキな一行に、若い私は同じ解放感を覚えたのだと思う。今も変わらない。


10 Dec 2017



World 3

 このブログを、前の「日々のこと」からずっと読んでくれている親しい友人がいます。PCをされない奥さまに、コピーして渡してくださる方もいる。個展などでは、初めて会う方に「いつも読んでいます」と言って頂くことがあり、驚く。ありがたい。

 始めた頃(2004年だったかな)には、毎日のように書いていました。よくあんなに書くことがあったと思う。たいていは、仕事を終えて、夕方の家事を始める前のスキマ時間に書いていた。書くことで、元気になる。ブログって、自分のために書くものなんだな、と思いました。

 最近は、自分以外のことに多くの時間が費やされて、前回書いたように余裕がなく、ブログばかりか、手書きの日記や覚え書きさえも途絶えがち。でも何かを書きたい気持ちは、いつもある。

 私はとにかく言葉に励まされ、芸術に支えられて生きている人間なので、今まで力をもらってきた言葉や作品がたくさんあるのだから、再びここに書き写し、見つめなおすのはどうだろう。けっして時間の無駄じゃない、と思いました。こういう時だからこそ、とも。

 図書館から借りた本は傍線が引けないので、百読一写に如かず。若い頃はせっせとノートに書き写していたのです。いつ頃からかやめてしまったけれど、今夢中で(のろのろと)読んでいるヴァージニア・ウルフの本は多くが絶版。これも再開すべきことかもしれない。

 世界には、私たちの外にある物質世界 (World 1) と、私たちが目を閉じると意識される主観的世界 (World 2) がある。そのほかに図書館の世界ともいうべき、私たち人類が創造し、発見して積み重ねてきた「知」の世界がある。オーストリア出身のイギリスの哲学者、サー・カール・ポパー(Sir Karl Popper)がその世界を「World 3」と呼んでいたのに因んで「World 3 Note」と名付けた私の読書ノートたち。 

  
  現代の文明が明日にでも滅びて、
  それにもかかわらずすべての書物が無償のまま残ったとすれば
  後世の人たちがわずか数世代で世界を再建することも可能なのだ。


 若い頃に惹かれた言葉は、これからも私を成長させてくれるだろうか。少しずつ、確かめるように、ここに書いてゆけたらと思います。


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 少女の絵は、Victoria & Albert Museum 所蔵の 'A Girl Writing'  という作品。フランスの画家、Sophie Bouteiller Desaux 、別名 Henriette Browne (1829-1901) によるもの。何ものにも代えがたい程、好きな絵です。


2 Dec 2017


やっとこさ

 今日はパンを焼いた。丁寧に作業し、時間をきちんと計って進めてゆけば、ちゃんと美味しいパンが焼ける。そんな当たり前の日常を、あらためて有難く思う。あれ、これって心の余裕? なんかまぶしいな。新鮮だな・・・っていうくらい、家の用事で慌ただしいひと月半を過ごしていました。

 その間の心の拠り所は、尊敬するN子さんからのお手紙(何度も何度も読み返す手紙のお薬)、いつでも電話してください、いつ電話してもいいよと言ってくれる、ケアマネージャーのAさんと妹Y、そして東京と沼津のお教室だった。妹に留守を頼み、物理的に家を離れ、メンバーの皆さんの笑顔や冗談の渦にまみれ(「笑いと集中のミルフィーユ」と私は呼んでいる)、どれだけ気持ちが救われたことでしょう。

 幸い、一大事は徐々に落ち着いて、さて、と家の中を見回す。読まれることなく積まれた新聞、ちっとも調理されないお野菜、返事や処理を待つ手紙や書類、くずれかかった棚のタオル類・・・。あちこちが「もやり」だらけ。これは最近読んだ、伊藤まさこさんの本『家事のニホヘト』で知った、伊藤さんとお仲間の造語です。「滞った空気」とある。


  ふだん目が行き届かなかったり、
  じつは分かっているんだけど見て見ぬふりして、
  やりすごしている場所、
  そこに澱んだ空気が「もやり」です。

 
 よし、少しずつ、気分屋のスローペースなりに・・・だけれど、家の中や庭の「もやり退治」ってものをやってみよう! 一冊の本のおかげで、そんな元気も出てくる。

 今年、ほんのちょっとだけお近づきになれた、山本ふみこさんの本も元気のもと。読ませていただいた中で一番好きな一冊をと言われたら、『片づけたがり』を選びます。どの本も面白いから、何故この一冊?と訊かれてもわからないのですが。

 山本さんのブログを思い出し、久しぶりにページを開く。同い年だけに、「なんで私の考えてることが分かるのだろう・・・」な内容に、またしてもじんと来た。

 旦那様に「つまんないなぁ」と、つぶやいたら、その一言で救われたというお話。私もまた「やんなっちゃうわよ」と、同世代の友人につぶやいてガス抜きしていた。

 これもまた「もやり」なのでしょう。心のもやり。自分のことを放置し、無視して、必要に迫られ今日のことだけを必死にやっていると、置いてけぼりの自分が、陰の方で綿埃だらけになっているのに気づかない。「やんなっちゃう」と言葉にした瞬間、そこにふっと風が送られたような気がしたのです。気持ちがちょっと軽くなった。

 長女気質代表は、この感覚、これからも忘れないようにしよう。




 一大事が始まる前のこと、仕事部屋に新しい机を入れました。途中までの絵が2点。ぼちぼち再開できそうです。






 大きな空も、気持ちを励ましてくれますね。同じスーパーの駐車場から、ひと月ちょっとの時を隔てて撮ったもの。上は葛飾北斎の西の空、下はルネ・マグリットの東の空。