18 Jun 2025



Stepping Stone

 昨日のレッスンで作ったこのポケットスケッチブックのことを、メンバーのYさんが「チビスケブ」と名付けた。「紫式部」みたい。由緒正しき響き(?)が気に入った。

 この夏で20年目を迎える Hiro's Art Class。講師が「こんなもの欲しいな」と思ったものを作る無手勝流で、ありとあらゆるハンドクラフトを作ってきました。メンバーの皆さん、よく付き合ってくださり、面白がってくださって、あっという間の19年でした。

 最近は、講師が準備する素材や道具は最低限、または無くてもできるアイデアを試みています。周囲を見渡せば、皆さんすでになにかしらの素材をお持ちだからです。

 コロナ禍の波にもまれた後、オンラインや自宅での少人数レッスンを通して、お一人お一人の個性を今まで以上に感じるようになりました。みんなで同じ素材、同じものを制作するのではなく、それぞれの生き生きとした感受性を発揮して頂いて、それぞれに合ったレッスンをしたい。水彩クラスでは一足お先に試みていて、よい結果を生んでいます。コラージュとクラフトのレッスンでも、同じようにと少しずつ軌道修正しているところです。

 今回も思わぬアイデアが生まれたり、お手持ちの素材をうまく生かしてくださった。おそらくレッスンの後で一層アイデアが湧いてくるのでは? 私の投げかけるアイデアはシンプルであればあるほどよい。しかし可能性をはらむもの、ワクワクする「何か」でなければなりません。


 この形のミニスケッチブックは、以前イギリスの友人たちに頂いたものを参考に作りました。この通りに作らなくてもよいので、お手持ちの布を使ったり、厚紙を使ったり。工夫すること、自由な発想を形にすることが、脳と心を活性化させます。


 こちらは紙と布でカバーを制作。スナップボタンのパチンという音が快い。やったー!と思ったら一つ失敗に気付く。この位置だと、左ページに跡がついてしまうのです。次に作る時は要工夫。

 失敗には意味があります。こんな小さな何かでも、失敗なしに作ろうとすると心が固まってしまって、のびのびとしたプラスアルファが生まれません。自分で転んで、自分で学べば、この先忘れることもありませんし、失敗が成功のもとであることをこうして身をもって感じれば、生きていく過程での励ましにもなる。大げさなようですが、心からそう思います。 

 Failure is the stepping stone to success.

 願わくば、この「チビスケブ」のページのいくつかが、自分の絵を育てるちっちゃな布石となりますように。

9 Jun 2025




鉛筆

 鉛筆は最も身近な筆記具であり画材です。誰もが幼い頃、掌がまだちっちゃなもみじみたいだった頃から手に馴染み、削りながら大事に使うことを心得る。この筆記用具には、木の匂い、芯の匂い、紙への抵抗、デジタルドローイングでは味わえない趣があります。

 道具として歩んできたその歴史を調べてみると、誕生の地はイギリスでした。1560年代に鉱山でみつかった高品質の黒鉛をそのまま、または糸で巻いたり板にはめこんで使ったのだそう。

 そのうち硫黄の粉と練り固めて、1760年にドイツのカスパー・ファーバーが進化させ、「芯」化。カスパー・ファーバーは、ご存知、ドイツの文房具メーカー、ファーバー・カステルの創業者です。

 


 木の匂いはよいものですが、この全身黒鉛のグラファイト鉛筆は安定感抜群。よく使います。鉛筆にしては少々値が張るけれど、amazonで求めることができます。




 お次はフランス。画家であり化学者でもあったニコラス・ジャック・コンテという人が1795年に、黒鉛を粘土と混ぜ焼き固めることにより、芯の硬度をアレンジできるようになったとか。そうやって今使われている鉛筆の「芯」に「進化」(シツコクテスミマセン)していったのだそうです。スケッチや素描に使われるコンテ(黒や茶の角形棒状のチョーク)は、彼の名から来ている。

 最近、イラストレーターを目指していた若い頃、盛んに使っていたコンテ型のハードパステルが出てきて、新たな気持ちで使い始めています。硬度があるから、ハッチング(斜線の集合で描く事)が可能。粉にすることも可能です。何十年も経てこその発見もあるかもしれない。




 絵には「動き」が必要だと思う。気をつけて観ると、どんなに静謐な世界であったとしても、時代を超えて愛されてきた絵画には大きな、または微かな動きが表現されている。動きがあれば、観る人がその絵に感じるものが立体的になり、時間も感じる。自分が描いているような気持ちになることさえある。描かれた世界に入りこむ事が出来るのですね。だからこそ共感され、愛される絵となる。「動き」について、この画材から学ぶことは大きいです。

 色鉛筆は、昔からイギリスのメーカー、Derwent の水彩色鉛筆を使っています。水を使ったり、水彩とのミクストメディアとして使うこともあれば、そのまま普通の色鉛筆のように描くこともあります。色調で分け、立てて使うと、パッと取り出しやすい。いつまでもお行儀よくケースにしまって置かないでねと、生徒さんたちにもお話します。




 このスケッチは、普通の色鉛筆として使い描きました。筆圧とハッチングの向きに気を配って。



 田植えの季節ですね。先日、新幹線の窓から「おお、お米よ!」と水田を写したら、手前の木々が色鉛筆画のように! 偶然の産物に、また鉛筆愛が高まりました。



3 Jun 2025


 


It's a Good Day

 イギリスのジャズシンガー、Clare Teal のアルバム 'They Say It's Swing' で知ったこの曲は、ペギー・リーと当時の夫、デイヴ・バーバーが作曲した1946年のヒット曲。instagramの投稿にはBGMとしてシェアしました。

 歌詞を読むと、「大河 蔦重」の一週前、太田南畝が放った「めでたし」に通じる人生讃歌に思え、訳してみたくなった。

 
  歌を歌うにめでたき日
  前進するにめでたき日
  何も間違っちゃいないよね
  朝から晩までめでたき日

  靴を磨くにめでたき日
  鬱を払うにめでたき日
  得るはあっても失うはナシ
  朝から晩までめでたき日

  お天道さんにおはようさん
  日は上り輝いてる
  すぐに出発できるよね
  ここゾと気合を見せたなら
  通行証は君の手に

  病気を治すにめでたき日
  料金払うにめでたき日
  深呼吸しよう 薬を捨てよう
  朝から晩までめでたき日



 レッスンの無い日はたまっていた片付け作業、庭仕事、欲しかったものを工夫して作ったり、絵を描きたい気持ちをちょっと脇に置いといて、さもない「めでたき事」をするのが愉しくてなりません。

 この日は、だいぶ前にインテリアファブリックの某輸入会社で求めたサンプルの布を正方形に袋縫い。パン生地を発酵させる際の保温用カバーを作りました。この生地が好きで好きで、以前ひざ掛けに仕立てて、クラフトの個展に出したこともあります。料理研究家、野口英世さんが気に入ってお求めくださり、ブログで紹介してくださったのは有難き思い出です。

 ウールのように見えるけれど、ずっしり重くてちょっとひんやりする。麻、または麻と何かの混紡だと思う。ソファーのカバーやクッション、カーテンなどに使われる上等な布。色も明るさの中に落ち着きがあって好みだし、こんなのもう二度と出逢えないよなぁ・・・。そんなわけで残り数枚を出し惜しみ。なかなか手が付けられずにいたのでした。

 でも、そんなこと言って後生大事に取っておくような年齢ではなくなってきました。好きな物はどんどん暮らしに生かすべし、です。

 コラージュクラスもその方向へ向かっています。新たに素材を買うこともたまにはアリですが、なるべく「今ここにあるもの」をめでたき何かに生かそうという試みを実践中です。またこちらでもご紹介したいです。



31 May 2025



散歩道から

 運動不足でひどい目に遭ったことがあります。わけあって家に引きこもりがちだったある冬の後、腰椎を傷めた。痛みは数か月続いた。以来、毎朝の腹筋運動、ストレッチ、骨を丈夫にするコツコツ体操、クルマは使わずなるべく歩きか自転車、そして手のひらを太陽に!日に当たる事を心がけています。

 「カルシウムはサプリではなく毎日の食べ物から摂りましょう。それならいくら摂っても害にはなりませんよ」。整形のドクターにアドバイス頂く。煮干し、ナッツ類、海藻類、大豆食品に、青菜類もよい。パスタ料理に入れたりする。(余談ですが、お米不足で心配なのは、和食離れです。現にお醤油の減り具合が前と違いますもの)

 先日、少し遠出の散歩をしました。新緑の季節、このトンネルをくぐりたくて。




 緑の景色には、よーく観ると、多様な色が隠されています。レッスンで緑の描写が難しいと質問されることが時々あるのですが、写真を資料に使う際は、そこに写る色に頼り切らないほうがよいとお伝えします。写真や画像の光学的仕組みはよくわからないのだけれど、飛んで消えてしまう色、つぶれてしまう色がかなりあるように思う。この場合、写真は充分ではないのです。

 その場でスケッチできれば一番。でもいつもとはゆきませんね。画像や写真を頼りにするには、まず紙に出力、プリントアウトします。そうすることで、光源として光を発するスマホやPCの画面からより、その時の「印象」がずっと深く心に呼び覚まされる。その「記憶」と「印象」を描くことが何より大切で、そうであればこそ、絵を介し、それを観てくださる人と共感が出来る。これは抽象でもコラージュでも、同じだと思う。

 ただ表面を写すのではなく、その形、色彩、陰影から自分がキャッチした「思い」を表現する。例えば上の写真なら、 


  少しひんやりした空気
  新緑のトンネルに道が一本伸びている
  その向こうには
  いったい何が待っているんだろう


 この風景の要素全てが私に与えるワクワクした気持ちを描かずに、何を描くか、ということです。 

 ここではなく別の道ですが、ハニーサックル(忍冬:スイカズラ)の花があちこちに咲いていた。少し摘んで帰宅。蔓植物の形の面白さ、甘い香りをしばし愉しみました。

26 May 2025



蔦住

 うちの庭は、庭と呼べるか怪しいような、家の角に引っ掛かったL字金具みたいな、短い廊下的、小さな小さな地面です。日当たり、風通し、環境も決してよくない。でも長く暮らすうちにいろいろ工夫を重ね、宿根草の助けもあり、身の丈に合った自分らしさが出てきたと、最近思う。

 ある年、コンクリートのポーチの高さの部分や、父が余ったブロックで作った一段高い花壇の高さの部分など、味気ない灰色部分、目隠ししたいところにアイビー(蔦)を植えた。はじめは点々と数十センチ間隔に植えたものが、あっという間につながってきれいに覆われ、蔦って凄い。パワーを感じました。力強い、でも愛らしい。葉っぱは常緑で、これも自ら敷いた赤煉瓦と相性が良い。

 ロンドン時代の散歩道に建つ家々には、よく名前が付いていた(拙著、『イギリス暮らしの雑記帖』第3章 House Warming 「名前のある家」参)。うちのことも、できたら「アイビー・コテッジ」とかって呼んでみたい。でも昭和の住宅です。ぜんぜん似合わない。

 大河ドラマ蔦重、昨夜も見入ってしまいました。狂歌のシーン、笑った!特に太田南畝が治郎兵衛さんに付けた「おとものやかまし」がツボに入り、笑いこけました。

 そうだ、控えめに「蔦の住宅」、略して「蔦住」はどうだろう。少し気取りたいときには「『蔦の住処』略して「『蔦住』です」と言えばよい(誰に?)。

 ・・・というくらい、いまや蔦がいっぱいです。

 先日はイヌツゲに続き、椿の剪定をした。風通しよくしておかないと「にっくきチャドクガ」にやられてしまうから、こればっかりはのんびりしていられない。

 やり終えて、夕方、達成感と共に眺めていたら、まだ薄緑の紫陽花が愛らしく、上のスケッチを描きました。真ん中が剪定後の椿の木、右の鉢は紫式部です。このコも、じきにきれいな薄紅の小花が咲くんですよ。

 蔦住感、伝わるでしょうか?

23 May 2025




梅雨入り前に

 今年も水蒸気の季節がやってきました。小さな庭の紫陽花は3種類。ヤマアジサイの紅がいち早く咲き始めた。父が植えた濃い紫と淡いブルーは昨年の強剪定にもメゲないで、蕾がどんどん顔を出して愉しみです。梅雨は鬱陶しいけれど、この大振りの花たちを愛でられるのが救いです。

 思いがけず、お隣さんからピンクのバラをたくさん頂いた。蔓バラの一種? 小さめの花が溢れるように咲いた、鮮やかなお美人さんです。棘に気をつけて細い茎をゆっくりほどき、3つの花瓶に生けました。



 
 これは玄関の靴箱スペース。バラは鏡や銀製品と相性が良い。




 May Blossom という名の花瓶に。

 


 ワークルームの棚にも。ハーブと生けると動きが出ますね。これからの酷暑にも耐える強者フェンネル。頼りにしています。

 この日はバラの色に元気をもらって勢いがつき、「新芽、出切ったかな?」のイヌツゲの剪定に、やっと踏み切りました。

 掃除も庭仕事も、やらねば、の気持ちではなく、自然とやりたくなった流れでするのがストレスフリーでいいなと思います。絵を描くのと同じで、そのタイミングがやってくるのを信じて待つのがいい。料理家の有元葉子さんが、掃除は汚れに気付いた時にササッとするから、あえて掃除の時間は設けないとご著書に書かれていて、なんて自由な!と思ったのがきっかけです。

 うちのイヌツゲは、トピアリーみたいな三段刈り。首に手ぬぐい巻いて注意深く脚立に乗り、電気バリカン。高枝切りバサミも駆使する。ふーっ。なんとか無事にやり終え、達成感。自分を誉めてあげる。

 この手のヘビーデューティーをやるときいつも思い出すのは、庄野潤三先生のお嬢さま、夏子さん。尊敬する亥の子の先輩は、こういうことを何でも軽々と、いかにも愉しそうになさるからです。先生の書かれた物語に、そのようなシーンは幾度も登場する。少しでもあのスピリットに近づくのが、庭師ヒロ・ミミ・コットンテイル(庄野夫人と夏子さんが付けてくださった私のニックネーム)の目標です。

 夏子さんたちのお庭とは比べ物にならないほどミニミニサイズなうちの庭ですが、まだ椿2本と金木犀、金柑の木が、スタンバっています。やるからね。みんな信じて待っててね。

19 May 2025




東京国立博物館

 昨夜も笑わされ、唸らせてもらいやした。大河ドラマ「べらぼう」。その蔦重に会いに、先日上野へ行ってきました。

 ↑の建物ではなく、この奥の平成館という建物で開催されている、「特別展 蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」。予想通りの結構な混み具合で、前半はじっくり観るというわけにはゆかず。が、盛況展覧会アルアルで、中盤からは少し空いてくる。ドラマでもいよいよ登場の喜多川歌麿作品を、ゆっくり観ることが出来ました。

 この大河ドラマが無ければ、これほど気合を入れて浮世絵を観ることはなかったと思う。ものすごい数の傑作が展示され、歌麿、写楽以外にも多くの才気あふれる絵師の絵が並んでいました。それでも歌麿という才能が特別な存在だということ、浮世絵に明るくない私にもよく伝わった。

 信じられないような細かな描写、美しい線、テレビも映画も、写真さえなかった時代とは言え、浮世絵師、彫師、摺師の三つ巴の力量。圧倒されます。ドラマの展開が益々愉しみですし、機会があったらもっと浮世絵の世界を知りたいとも思った。

 イギリスにいた頃親しくしてもらった画家一家、エスコフェット家のお父さん、ホセが私の絵を観て「とても日本的だ」と言った。自分なりに西洋の影響を受けて描いていると思っていたので、びっくりした。無口なホセに「それはなぜか」と、英語の下手な私は深く尋ねることをしなかったけれど、日本に帰って来てからその意味が少しずつわかるような気がしています。これについては、またの機会に。




 展示の最後はアミューズメントパークのようでした。ここだけ写真撮影が可能とあり、バチバチ撮りました。おそらく日本中から集まった、大河のファン、蔦重のファン、横浜流星さんのファン・・・、老若男女とはこういうことですね。展覧会としてはとても珍しい、まさに江戸市中のような賑わいの光景。(画像は人が入らないようトリミングしました。)




 アミューズメントコーナーの展示の中に、衣装デザイナーの伊藤佐智子さんによるスケッチもあり感激! このドラマの美しさや人物描写における、とても重要な要素のひとつだと思う。伊藤佐智子さんは、私がティーンエイジャーの頃スタイリストとして活躍されていて、購読していた雑誌、「装苑」だったか「服装」だったか、「an an」だったか・・・、忘れたけれど、カッコいいロックなアイデアに魅せられ、影響を受けたものでした。




 ドラマでは治郎兵衛さんの衣装に、いつも「カッケー!」。心で叫んでおります。

 さて、国立博物館に行ったら必ず訪ねるのは、正面向かって右側に建つ東洋館です。ガンダーラの仏像を拝むためです。ギリシャ彫刻の影響を受けた彫像群。これまた「カッケー!」です。ディスプレイが以前とだいぶ変わって展示が減っていた。それでもこの三体には会えました。




 中国の古い器にも惚れ惚れ。




 戦車や爆弾の代わりになる、「ホメホメ大作戦」というのを若い頃に考えたことがあります。相手にカチンと来たら、そんな時こそお互いの文化を褒め讃え合ってはどうかと思ったのです。どんな国にも地方にも、人が苦労して遺した、素晴らしい文化、文学、芸術作品があるでしょう? お互いにそれを讃え合ううちに、殺し合いがどんなに馬鹿らしいことかハッと気づく。「いや、悪かった」と握手する。そんなストーリーを考えたのです。若気の甘過ぎる妄想? 幻想? でも文化や芸術にはその力があると信じたい。

 上野駅に久しぶりに降り立ったら、「ここって外国?」でした。海外からの観光客が、日本人より多いほどに感じます。世界中、どの観光地もきっと同じでしょう。世界はこれだけグローバルに変化している。共通の悩みもいっぱい抱えている。そろそろ地球は「違い」を尊重しながらの、「共感」の星にならないでしょうか。蔦重と鱗の旦那のように。

16 May 2025



Unpredictable

 レッスン中によく使う言葉です。予測不可能な、という意味。

 余計なことは考えず、自分が心地よい「景色」を観たいがためだけに時間を費やす。作為はもとより、出来得る限り作意なくでき上がったものは、新しい自分を発見する面白さがあります。このコラージュもそんな感じで生まれました。

 でも一晩寝て翌朝になると、あ、ここは違うな、と思うこともある。それは自分が変化したから。逆に昨日はイマイチと思った作品が、あ、面白いかも、と思えることも。これもやはり、昨日の自分と今日の自分が違うからです。

 他との関係から自分は変わってゆく。何かと、誰かと、関わることで変化する。寝る前に読んだ本の数ページ、思いがけず見た夢、朝一番の小鳥の囀り、朝の光、ご近所さんとのあいさつや、スマートフォンに飛び込んだ友人からのメッセージ、などなど。自分自身との関わり、体調の変化も影響します。

 私は紙が大好き。使い古された紙、古切手、キラキラ輝くチョコレートの包み紙、大切な布地をコピーしたり、事務用封筒の裏の模様もポップできれい。アジアの紙、ヨーロッパの紙、百円ショップの紙、なんでもいいなと思った紙は引き出しにしまいます。自分でペイントした紙素材も大切。何気ないそれらの紙切れが、生まれ変わる瞬間に立ち会いたい。

 以前、画家の風間完さんが、なぜ小さなもの、たとえばマッチ箱を愛するかを、TVで話されていた。それは「いつか消えて無くなるものだから」と。

 このままいくと未来の世界では、紙の存在も以前のようではなくなりそうです。それをどこかで感じていて、紙を大事に思うのか。それともただ、子どもの頃から紙に親しみ、絵を描き、切ったり貼ったりしてきた延長なのか。他にも理由はあるかもしれません。

 レンブラントのように描くのに5年かかったが、こどものように描けるまでには長い画家人生がかかった、というような意味のことをピカソが言っている。この切って貼るだけの何のことはないスタイルをもう少し続けたら、何かがわかる。何かが変わる。予測不可能な新しい実験、続けようと思います。

9 May 2025



Another Green World

 最近リーズナブルで、しかも美味しい静岡茶を見つけた。朝いちばん、少し冷ましたお湯でゆっくりと淹れる。この写真のような手入れされた美しい「トピアリー」お茶畑を思い浮かべながら頂くと、香りが一層豊かに感じられ、格別です。

 もう何十年も前になるが、原田泰司さんの小さな画集を、入院していた祖母に持って行ったことがある。日本の田園、里山の風景が描かれた画集。田舎で育った祖母、目を細めて喜んでくれた。

 ところでお米。ニュースでは5キロ4,000円台と盛んに言うけれど、この辺りでは5,000円台が続く。1年経たずに倍以上。お米さえあれば、だったのが、突然高級食材になりつつある日本のお米。

 仲買業者が高値を付けてくれる。しかしコメ離れが起こる心配から値段を下げてくれと頼む農家の方がいる、なんて報道が。

 三食ご飯でもいいくらいご飯大好きな自分でさえ、パンや麺類を食べることが増えた。パンを焼くのは前からだけれど、以前より頻繁になった。




 いったい今までと何が変わってしまったのか。理由は一つではないだろう。未来を見据えて知恵を絞り、この状況を改善してゆく方向へ向かいますように。庶民の胃袋はもちろん、日本の田園や里山の美しい原風景を守るためにも。 




 これは 'HOME FARM' という洋書(Paul Heiney 著 / Dorking Kindersley 刊)より。Country Living magazine のガーデニングページに絵を描いていた頃、向こうで求めた。資料として、大いに頼りがいがあった。多岐にわたる自給自足農業についての本で、内容のほとんどはヨーロッパの農業や牧畜についてなのだが、日本の稲作についての記述もあり、うれしかった。

 当時はロンドンのチャイナタウンのスーパーで、スペイン米を求めていた。粒が大きかったが贅沢は言えません。まあまあ美味しかったし。カリフォルニア米は水田ではなく乾いた土地に空から種を蒔いて育てる大規模な農法だと少し前にテレビで観たが、同じことを試みている日本の若い農家さんもいると、昨日知る。

 農業人口の減少や気候変動への対応・・・。日本の水田は消え、グローバルな農法に移行してゆくのだろうか。

 でもでも、世の中から和服を着る人、居なくならないですよね。水田もその姿をいつまでも留めてほしいと、夢見る「アウト老」(←みうらじゅんさんの新語)、ブツブツつぶやく。

7 May 2025




絵を描くこと

 庭のスズランが可愛らしくてたまらない。画家の堀文子さんは、絵を描くには対象に「逆上する」くらい感動が無いと、と書かれている。わかる。逆上するくらい愛おしい、我がスズランよ。

 よく水彩の生徒さんから、白い花はどう描いたらよいか尋ねられる。何か特別の描法があるかと言えばそんなことはなく、その時々によって変わる。充分に感じることが出来れば自ずとその日の「白」が見えてくると思う。

 それからあまたの偉大な画家たちが、白い花をどう表現しているかを観て学び、「共感」することも大事だと思う。

 先日図書館で借りた、若松英輔さんの『本を読めなくなった人のための読書論』が面白い。まず、本を読むには「書く」ことが大事、とある。なるほど、と膝を打つ思いがした。もしかしたら本を読むことは美術館やギャラリーを訪ねたり、画集を開いて芸術作品を感受する事。書くことはそのまま絵を描くことに当てはめてもよいと思った。

 印象的な言葉がいくつも出て来る。「待つ」こともそのひとつ。そして「まず、『ひとり』の時間を確保する。そして、『ひとり』の時間の快適さを実感することから始める」。

 イラストレーターとして締め切りと格闘していた頃のこと、描けない、と思うことがよくあった。長年そのデッドラインに鍛えられてきたのだから、自分がいずれ描くことはわかっている。でもそれを先延ばしにしたい。正直、できれば描きたくない。でもでも描かなくちゃ。

 そんなときやっていた「ひとり芝居」がある。「絵なんか描きたくなーい。描かないもんね。ぜったい」などと心でうそぶく。しかし白い紙を敷いた机の前に座ってはいる。この矛盾するつぶやきをしばらくくり返し、雑誌をパラパラしたり、引き出しの掃除をしたりして意味のない小さな作業をしていると、ふっと風向きが変わる瞬間があり、いつの間にか、描きだしている自分に気付く。

 描きたくないときは、肩に力が入っている。上手く描こうと欲をかいている。上手く描きたいとは、他と自分を比べる事から来る不自由さで、一番避けたい事。そんなときに無理をすれば面白くないし、絵がよいものにならないことは嫌というほど知っている。それで意識下の自分が工夫して、自然とこんな下手な芝居を編み出したんだろう。「『ひとり』の時間の快適さ」を手に入れるための、自分なりの儀式のようなものだったんだろう。

 『本を読めなくなった人のための読書論』にはこんな風に、こと読書に限らず気付かされることがあり、読者に寄り添ったとても読みやすい本。メモを取りながらゆっくり思考して、レッスンにも生かせたらと思います。

4 May 2025



For the Roses

 instagramの投稿には、好きな音楽をBGMに付けることが出来る。それが愉しくて投稿するというのもある。DJになったような気分がわずかながら味わえるから。

 90秒がMAX。好きな音楽がブチっと途切れるのは嫌だ。エンドレスで聴いて貰えたらといいなと思い、木馬が回転するようにうまくつなげるため、こだわって秒数を加減する作業もする。

 おそらくほとんどの方はミュートでスルーしているだろう。でも中には愉しみにして下さっている方も。選曲に共感のコメントを頂くことがたまにあり、うれしくなる。

 たとえば、バラの花のドローイングには、ジョニ・ミッチェルの 'For the Roses' 「バラにおくる」をのせた。私が最初に買ったジョニのアルバムのテーマ曲で、あのレコードはジャケットデザインも凝ったものだった。彼女の声を聴くと、身体をヒューっと冷たい風が抜けるような感覚をおぼえる。枕の冷たいところを探すような、未知の場所を一人旅するような、緊張と解放を感じる。そしてその哲学的な詩に、勇気を与えられる。

 などと言うと、歌詞を全て理解しているかのようだけれど、リズムに乗った流れるような彼女の言葉を鼻歌でそらんじていたとしても、その意味が深いところでピンと来るようになったのは最近のこと。若い頃に出逢った芸術作品の数々が、年月を経て今の自分に新しく沁みる。音楽に限らずアートにも文学にも、同じことがまま起こる。

 パウル・クレーは若い頃に描いた絵を、晩年になり、再び描いてみたという。面白い実験だと思う。

2 May 2025



'HAPPY HORMONE'

 季節がめぐって春から初夏へ。今日はあいにくの雨模様だけど、GWの頃は毎年気持ちのいい日が続く。うちの小さな庭にも、宿根草たちがハロー、ハローと顔を出し、一年ぶりの再会が続いています。

 気のせいか、今年は花の付きや色が鮮やかなように思う。去年より寒暖の差が大きいからか。または年を経るごとに、この世界の美しさが身に迫ってくる。そのおかげなのだろうか。




 これは、4月18日にクラスの有志と一緒に出掛けた、東京文京区の小石川植物園です。作り込まれたガーデンとは違う。ロンドンに暮らしていた頃に時々歩いた「コモン」と呼ばれる広大な緑地に近い風景。都会のど真ん中に、大きな樹木や林に触れられるこんな場所があるなんて。やっぱり東京は歴史ある都なのだ。

 開けた所には親子連れや園児たちが。しかし混みあう感じはない。奥に入った明るい林にも適度に人が散歩している。コモンよりずっと安心してスケッチが出来る。

 メンバーの多くは、外で絵を描くなんて小学生時代のスケッチ大会以来と。外で食べるご飯が美味しいのと同じに、外で描くのも「美味しい」に近い、独特な感覚を呼び起こす。発見がいっぱいありました。

 お日さまの光というものが関係しているのではないかと思う。セロトニン serotonin は、心の安定や睡眠の質を上げる「幸せホルモン」、英語で 'happy hormone' 'feel-good hormone' とも呼ばれる大切な神経伝達物質。調べるとその効果がたくさん出て来る。

 神経伝達物質の中には、喜びや意欲をもたらすが過剰になると問題もある「ドーパミン」と、集中や積極性をもたらしストレスに打ち勝つのを助けるけれど、やはり過ぎると攻撃性やパニックを引き起こす「ノルアドレナリン」があり、この二つのバランスを「まあ、まあ」となだめ保つ重要な神経伝達物質が、この「セロトニン」なのだという。

 セロトニンの分泌を促すためには、日光浴30分が効果的との事。限界値があるから、30分ほどでいいのだそうです。これから夏に向かうと熱中症や日焼けも気になってくる。早朝の時間を大事にしたい。雨や曇りの日にも、直接空からの光を浴びるのは有効らしいです。




 ここは、好きでよく行く場所、愛鷹自然公園。園内にある宿泊施設 「inn the park」のショップで、先日このお日さまのような、お月さまのような、お皿を求めました。




 セロトニン・プレートと呼ぼうかな。コラージュを愉しむように、料理や小さな器をのせて遊んでいます。猪熊弦一郎さんが、昔テレビの取材に応えていたのをよく憶えている。ハワイの別荘で檀ふみさんに「焼き飯を作りましょうか」と、手早く調理。よそったお皿にミニトマトをバランスよく飾り、「絵を描くのと同じ」と仰っていた。

 それ以来、私もいつもそう思ってよそうようになった。はたから見たら、ヤヤコシイヤツかも。でも愉しいし、ご飯が一層美味しくなる。

 「コラージュ向き」のフラットなお皿は重宝。このお日さま皿はホックニーっぽくて、今の気分に願ったり叶ったり!




 最近、鉛筆のドローイングが面白い。絵を描く行為もまた、セロトニン効果に似たものがあるかもしれない。他にも、楽器を奏でる、歌を歌う、踊る、スマートフォンで写真を撮ることだって、芸術は皆、心の平和をもたらす大切な活動だと思う。




 世界には戦争や紛争、災害の爪痕に辛い日々を堪えている人たちが大勢いる。彼の地にも季節のサインが、人々の喉を潤す、たとえ一滴の水のようにでも届いているだろうか。平和な日常の有難さを思う時、それを幸いと喜ぶ自分がいるのと同時に、思いを馳せる荒々しい景色というものがある。心はいつもうつろうが、それが生きるということだと思う。 


 セロトニン、セロトニン。今日も補給して、一日を大事に過ごせたらと思います。

12 Apr 2025



シャガの花

 今年はシャガの花が今までになく沢山咲いてくれて、小さな庭が賑やか。コロナ前になるから、もう6、7年経つだろうか。明日館でレッスンをしていた頃、行き帰りにによく立ち寄った目白庭園で、ひと株手に入れたものの子孫です。

 ゆっくりゆっくりと、植物は歩く。

 そもそも目白庭園からスカウトした苗は、今盛んに咲いている場所から少し離れたところに植えた。しかし一年ごとにじわじわと移動し始める。はじめは迷走している感じだった。でも数年後、狙いを定めたかなと感じた。

 日があまり当たらないので日光を必要とする花は植えられないから、アイビーで地面をカバーしていた塀に沿う狭い場所があり、去年あたりからそこが気に入ったのが見て取れた。力強い古株アイビーをものともせず、スッとしたシャガの葉が秋から冬にかけてバリバリと伸び始めたんです。

 そして春。ずらり花穂が景気よく伸び、次々咲いてくれている。ありがとう。うれしいよ。



 肥料も何も与えていないのに、こんなに元気に咲いてくれた。

 NHKのカールさんとティーナさんの番組が好きで、よくオンデマンドで観ています。お二人の庭にもこの花が咲く。ティーナさんが大好きだと仰っていた。共感します。




 うちのシャガのふるさと、目白庭園。これは冬の景色です。池の周囲は5分もかからず一周できる、こじんまりとした回遊式日本庭園。もとは大地主の敷地だったそうで、1990年に江戸時代以来の伝統を踏襲し作庭されたとのこと。案外新しいんで驚く。築地塀も長屋門も風情がある。

 赤鳥庵という数寄屋造りの平屋が園内にある。童話作家の鈴木三重吉がこの近所に住んでいたそうで、三重吉が発行した子供文芸誌「赤い鳥」から名前を取ったのだそうです。

 時には池のほとりの六角浮き見堂で、持参したおにぎりやサンドイッチをサクッと食べてから明日館に向かった。懐かしい場所です。 

9 Apr 2025



Arrival of Spring

 春ですね。ホックニーが言うように、「春の到来」、これ以上のよいニュースはない。特に最近の世界情勢、地球のことも、なんでそうなるの?ということばかり。こんな風に穏やかな春を愛でられる。それを幸せと感謝し、心身を健やかに保つ小さな工夫を重ねています。




 絵を描く事、創作すること、課題や発表のプランを立てる事は、明日への待歯石。大きな励みです。

 桜の花を描きたいと仰る水彩クラスの生徒さんに昨日お伝えしたことは、花だけが独立して美しく見えるのではなくて、空の色、周囲の新緑、建築物など、それらとのハーモニーによって、花が生き生きと目に飛び込み、魂が震える=感動するのだということ。

 色に汚い色はないと、何十年も前、イラストレーターとして駆けだした頃に気が付いた。朝から晩まで、描いて、描いて、描いて・・・。そのうちふっと、隣り合う色との響き合いによって、どんな色彩も美しく輝くことを知った。嫌いな色というものが無くなった。
 


 周囲とのハーモニーがあるからこそ、どんなものも光を放つ。響き合いに敏感になると、対象をよく観ないわけにゆかなくなる。色彩ばかりではなく、光と陰、象(すがた)を知ることにつながってゆく。



 絵を描くことは、発見すること。探すのではなく。世界は美しいものに溢れています。

26 Mar 2025



これで安心

 眠れなくて困るということは、滅多にない。たとえ就寝前にコーヒーを飲んでも、コトン。瞬く間に眠りに落ちる自信があった。余程の心配事がない限り、ここまでそんな具合に生きてきました。

 ところが先日、夜中の2時半ごろ目が覚めて、そこからまったく眠れなくなってしまった。同年代の友人たちも口をそろえて言うのは、最近夜中に必ず一度目が覚めてしまう、という傾向。でもすぐに二度寝が出来るのよね、と。自分もそうであったのに。

 30分ほど本を読んでみる。睡魔は戻らなかった。翌日は予定が一杯で、車の運転もしなくちゃならないから「寝なくちゃ、寝なくちゃ」。焦れば焦るほど眠れない。昼間遭遇した、小石川植物園の樹齢300年の巨木、大クスノキのパワーにヤラレた・・・のかもしれない。

 かすかに残っていたパチョリというエッセンシャルオイルの小瓶を枕の上で振って振って、微かな香りを吸い込んでやっと眠れました。やはり効くのだと確信する。

 パチョリはインド原産のシソ科ハーブです。他の精油とはかなり違う、土臭い重たい香りで、初めての人は最初抵抗があるかもしれない。でも慣れるとなんとも不思議な魅力で、この香りさえクンクンすれば気持ちが平静になり、少しずつ重力に素直になって、気付けば夢の世界なのです。少なくとも私は。

 精油は濃厚なものなので、誰にでもおすすめはできません。体調にもよるし、妊婦にはとくに注意が必要ですね。原液よりは、薄めてスプレーボトルに入れるべし、とずっと思いながら、ここ最近は必要無かったので後回しになっていたけれど、今回のことがきっかけで、やはり調達してみました。

 Covent Garden の NEAL'S YARD は、30年前、ロンドン時代の懐かしいお店。そこの基礎化粧品なら安心だろうと、一揃い求めて使っていました。エッセンシャルオイルも、入浴剤の代わりにしたり、ポプリに使ったり。空気の乾いたイギリスでは匂いに敏感で、どの家にお邪魔してもいい香りがしたのを憶えている。

 ネットショップでバチョリの精油を取り寄せている間に、薬局で無水エタノールと精製水を準備した。スプレーボトルも用意。作り方を検索し、分量を量って、あっという間にルームスプレーができました。買い置いてあったラヴェンダーでもひと瓶作った。

 ラヴェンダーはスタジオに。エアフレッシュナーとして仕事の気分転換に使おう。パチョリは寝室に。枕にシュッシュとする。重厚な香りがマイルドになって、丁度いい。

 NEAL'S YARD には、程よく調合された就寝用のアロマスプレーもあり愛用しています。寝る前読書の時間が、まるで夜のハーブガーデンにいるよう。平和な香りに包まれ、一日を穏やかに終えることが出来る。'Goodnight Pillow Mist' という小瓶です。

21 Mar 2025



春の訪れ

 盆栽で求めた侘助椿。この花を知ったのは、庄野潤三先生のお仕事を通じてでした。

 地植えにして、もう10年くらい経つかもしれない。ねじ曲がった茎がやっと上を向き始めたのはいいけれど、ちっとも花を着けずに我慢の年月。ようやく今年、いかにも控えめにいくつかの白い花が咲いてくれた。うれしくてハサミを入れ、以前Cさんに頂いた一輪挿しに生ける。なんて品のある花。

 David Hockney は勝手に心のお師匠さまと慕っている画家だけれど、今どきは幸せなことに、動画でたっぷりインタヴューを拝聴できる。その中で、'arrival of spring' という言葉が印象に残った。

 誰かが教えてくれた話として、テレビのひとこまについて語るホックニー。「どうしたらニュースを見て楽観的になれるでしょう」。その質問にある哲学者が「それがテレビというものです。悪いニュースはお金になる。だから嫌なニュースばかりを流すんです」。ではよいニュースって何でしょう? 哲学者は一言、こう答えたというのです。

 'Well, the arrival of Spring.'
 



 先日小石川植物園で、何十年ぶり? ミノムシに出会いました。子どもの頃、中の虫を引っ張り出して(ゴメンね)、毛糸クズや布切れ、紙切れを一緒に容器に入れ、観察したことがあります。クズを素材に、素晴らしくカラフルで愛らしいお家を、彼はこしらえて見せてくれた。もしかしたらその時の驚きは、今も私の仕事に大きな影響を与え続けてくれている。




  これからしばらく春の訪れに、大きく見開いた目を凝らしましょう。

17 Mar 2025



久しぶりに

 なんとムラのあるブログでしょう。我ながら(またしても)呆れます。

 本当は、20年ちょっと前に始めた旧ブログ(当時はホームページと呼ばれていました)の時のように、instagramには表せない、長々しい文を書きたい気持ちがいつもある。文章を書くことは、絵を描くことと同じに、子どもの頃から大好きでした。書くと心の中が整って、さっぱりするのです。

 まぁとにかく、ボチボチ再開します。ご期待無しに、ご笑覧ください。

 再開に際して、この写真を選びました。毎朝最初にすること。お茶を淹れる事。住まいの辺りの散歩コースには茶畑が広がっています。夜明け前の台所で、その方角に向かって、澄んだ翡翠色を湛える砥部焼のそば猪口を押し戴き、一日が始まります。

 香る緑茶を頂きながら前日の日記を、宮下さんから3年前に頂いた、赤い表紙の3年連用日記に綴る。

 それから、日によってコーヒー、または紅茶をぽってりしたイギリスのマグに淹れて、その日の予定をタブレットのメモアプリに箇条書きにする。それをPCに送信し、あとでプリントアウトする。食事や家事を終えた8時か9時頃から、一行一行、やり終えるごとに横線で消してゆきます。

 何でもない日々の小さな出来事が、益々尊く思えてくる。この色々あった数年の間に、あらためて学び直したことでした。




 うちの小さな地面には、今、Tete-a-tete の黄色い花が満開です。鉢植えのプリムローズも。室内には、ミモザ。春の空気を、深呼吸中。