絵を描くこと
庭のスズランが可愛らしくてたまらない。画家の堀文子さんは、絵を描くには対象に「逆上する」くらい感動が無いと、と書かれている。わかる。逆上するくらい愛おしい、我がスズランよ。
よく水彩の生徒さんから、白い花はどう描いたらよいか尋ねられる。何か特別の描法があるかと言えばそんなことはなく、その時々によって変わる。充分に感じることが出来れば自ずとその日の「白」が見えてくると思う。
それからあまたの偉大な画家たちが、白い花をどう表現しているかを観て学び、「共感」することも大事だと思う。
先日図書館で借りた、若松英輔さんの『本を読めなくなった人のための読書論』が面白い。まず、本を読むには「書く」ことが大事、とある。なるほど、と膝を打つ思いがした。もしかしたら本を読むことは美術館やギャラリーを訪ねたり、画集を開いて芸術作品を感受する事。書くことはそのまま絵を描くことに当てはめてもよいと思った。
印象的な言葉がいくつも出て来る。「待つ」こともそのひとつ。そして「まず、『ひとり』の時間を確保する。そして、『ひとり』の時間の快適さを実感することから始める」。
イラストレーターとして締め切りと格闘していた頃のこと、描けない、と思うことがよくあった。長年そのデッドラインに鍛えられてきたのだから、自分がいずれ描くことはわかっている。でもそれを先延ばしにしたい。正直、できれば描きたくない。でもでも描かなくちゃ。
そんなときやっていた「ひとり芝居」がある。「絵なんか描きたくなーい。描かないもんね。ぜったい」などと心でうそぶく。しかし白い紙を敷いた机の前に座ってはいる。この矛盾するつぶやきをしばらくくり返し、雑誌をパラパラしたり、引き出しの掃除をしたりして意味のない小さな作業をしていると、ふっと風向きが変わる瞬間があり、いつの間にか、描きだしている自分に気付く。
描きたくないときは、肩に力が入っている。上手く描こうと欲をかいている。上手く描きたいとは、他と自分を比べる事から来る不自由さで、一番避けたい事。そんなときに無理をすれば面白くないし、絵がよいものにならないことは嫌というほど知っている。それで意識下の自分が工夫して、自然とこんな下手な芝居を編み出したんだろう。「『ひとり』の時間の快適さ」を手に入れるための、自分なりの儀式のようなものだったんだろう。
『本を読めなくなった人のための読書論』にはこんな風に、こと読書に限らず気付かされることがあり、読者に寄り添ったとても読みやすい本。メモを取りながらゆっくり思考して、レッスンにも生かせたらと思います。