11 Dec 2016




詩について

 時が止まった。タブレットで観る You Tube の小さな画面越しでさえ、そう感じた。

「ごめんなさい。お詫びします。とても緊張しているんです。」

 紳士淑女で満席の会場に、あのパティ・スミスが弱々しくそう言うと、つまずいた2番の最初の部分に戻って歌いなおした。言葉というものがこの世界の一部であることを感じる瞬間。言葉が消えた世界を、まるで疑似体験するようだった。

 ディランは世界のどこかでこの様子を観ていただろうか。もしそうなら、少し心配しながらも、感謝とともに「それでいいんだよ、パティ」と思ったのではないか。

 こじつけだと言われても気にしない。たるんだ綱か割れたガラスを渡るように危うい、この世界と人間のことを詠ったこの「はげしい雨が降る」に、これほどふさわしいパフォーマンスはない。朝から何べんも聴いていて、そう思う。

 長い曲の終盤に向かうにつれ、パティは力を取り戻し、息を吹き返し、勇敢に歌い切った。涙があふれた。客席の紳士淑女の中にも、私と同じ気持ちの人がいるのがわかった。ディランやパティ・スミスと同じ時代を生きていることに感謝する。



 
   私が見るものと 私が言うこととの間に
   私が言うことと 私が黙っていることとの間に
   私が黙っていることと 私が夢みることとの間に
   私が夢みることと 私が忘れることとの間に
   詩は、ある


 これは、ディランじゃなくて、1990年にノーベル文学賞を受賞した、オクタビオ・パスというメキシコの詩人の言葉。ずっと前に新聞で読んでメモしてあった言葉。